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くらし調査ファイルNo.31「一関の洞窟遺跡①」

(idea2025年10月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。


 洞窟の種類を大きく分けると、人工的に掘った「人工洞窟」と、自然の作用によって形成された「自然洞窟」の2種類があります。砂鉄川流域の石灰岩地帯には多くの自然洞窟が位置しており、中でも「幽玄洞」は日本最古の鍾乳洞で、自然洞窟を整備した貴重な観光資源です。

 また、内部で埋蔵文化財が見つかった洞窟は「洞窟遺跡(=洞穴遺跡)」と呼ばれ、市内には周知の洞窟遺跡19か所存在します。今回はその「洞窟遺跡」に着目し、我々のはるか遠い祖先の暮らしに思いを馳せてみました。 

 

※記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果です。


目次

「洞窟」とは?

 

 「洞窟」の定義は様々な解釈がありますが、「崖や岩石に開いた空間で、人が入ることができ、入口の長径よりも奥行きが深いもの」を指すことが多いようです。洞窟と定義が似ているものとして「岩陰(いわかげ)」があり、「入口の長径よりも奥行きが浅いもの」などが該当します。

 

 洞窟には種類があり、大きい括りでは、金鉱山や炭鉱などに人工的に掘った坑道を人工洞窟と呼び、自然の作用によって形成された洞窟は自然洞窟と呼ばれます。

 

人類との関わり

 

 洞窟の内部では、石器や土器、獣骨などが見つかることが多く、埋蔵文化財包蔵地洞窟遺跡(=洞穴遺跡)」と呼び、市内の洞窟でも縄文土器等が出土しています。昔の人々にとって、建設する労力を使わずに利用できる「洞窟」は、「住居」として大変身近なものであったといえます。

 

 しかし、「日本を含むアジアの国々」は、時代が進むにつれて、洞窟は物の怪が住むという思想が生まれ、恐れの対象となりました。そのため、洞窟の奥に興味を持つ洞窟探検が行われたのは、今世紀に入ってからとされます。

 

 反対に、西洋の洞窟探検の歴史は古く、クロマニョン人(後期旧石器時代)が描いた洞窟壁画は、入口から1㎞以上も先で見つかっており、彼らが「洞窟の奥に進むこと」に意味を見出していたと推測できます。

 

 また、一年を通じて低温を保つ氷穴や風穴は「天然の冷蔵庫」「種子の保存」などで活用されてきた歴史があり、現代では、観光資源として利用される洞窟も多く、昔も今も、人と洞窟は密接に関わってきました。

 

 また、洞窟は様々な学問において貴重な存在となっており、当市に隣接する宮城県気仙沼市に位置する「管弦窟」は、国内でも珍しい水中鍾乳洞で、氷河期には海面が今より低かったことを示す根拠(水中では鍾乳石が生成されないため)になっています。

※洞窟の形成については、次号で詳しく紹介します!

 

【コラム】縄文時代の洞窟での生活

 縄文時代においての住居は、丘陵、台地の日当りのよい傾斜地か平地で、近くに飲料水のあるところを選んで竪穴住居を建てていましたが、「洞窟」も住居として利用していました。

 

 天然の住居として、雨風を凌ぐために利用されていた洞窟ですが、夏は涼しく冬は暖かく感じるというメリットのほか、湿度が高く奥に行くほど日の光が届かないというデメリットもあり、住居として活用されるのは、ほとんどが岩陰や洞窟の入口付近でした。

 

 洞窟付近や内部には湧水があることが多く、飲料水等で利用していたのではと考えられます。

 

■川に近い洞窟の暮らし

 川から高さ1~2mほどの位置に、住居として利用されたと考えられる洞窟が発見されていますが、現在の川は、山から流れ出た土砂が川底にたまっており、昔よりも川の水面が上がっています。

 そのため、現在の川の位置を見て「増水で水が入ってきてしまうため、住居として使えない洞窟」という判断はできないそうです。

 

■キャンプ地のように使われた洞窟

 交易ルートの中間にある洞窟は、1泊や2泊だけのキャンプ地として利用されていたのではないかといわれています。

 

自由研究_布佐洞窟遺跡内から入口を眺めた景色
布佐洞窟遺跡内から入口を眺めた景色

住居として利用していた時代は、日の出とともに目覚め、日沈とともに就寝していたのでしょう。とても健康的ですね。


一関市の洞窟遺跡をピックアップ!!

 上記では、洞窟と人類の関わりについて少し触れましたが、実際に当市にはどんな「洞窟遺跡(=洞穴遺跡)」があるのでしょうか?

 一関市教育委員会文化財課文化財調査研究員の畠山篤雄さんに取材や調査にご協力いただきましたので、特別解説つきでお伝えいたします!

一関市教育委員会文化財課 文化財調査研究員 畠山篤雄氏

 岩手県教育委員会が2000年に発行した『岩手の洞穴遺跡』によると、市内の周知の遺跡は19か所あり、洞窟遺跡は砂鉄川流域の石灰岩地帯に多く分布しています。今回は誌面の都合により、一部のみ抜粋してご紹介いたします(順不同)。

※「遺跡名」は、文献に記載されている名称をそのまま掲載しています。

遺跡名 場所 岩帯 遺物
 不動窟 一関 浮石流凝灰岩 縄文土器

箕穴

(別称:横沢洞穴)

東山 石灰岩 縄文土器、貝製装飾品、骨片

姫穴

東山 石灰岩 縄文土器、貝製装飾品、獣骨片

川底第2洞

東山 石灰岩 縄文土器片、獣骨片、炭化物

↑篤雄さんによる解説:昔は、獣骨の中にある髄まで食べており、「転んで骨折した」ときと「食べるために割った」ときの骨の割れ方が違うため、「食べるために割った骨が見つかる=住居」だと推測できるそうです。

 また、縄文土器片と炭化物(何かを燃やしたあと)などが洞窟の奥で出土(日本国内では珍しい)しているため、何かの祈りに使われた可能性があると考えられています。

熊穴洞穴 東山 石灰岩

■人工遺物

縄文土器、土師器(はじき)(平安)、石器(掻器(そうき)、磨製石斧ほか) 他

■自然遺物

人骨、哺乳鋼骨 他

↑篤雄さんによる解説:壁際のやや窪みのある箇所に人骨がまとまって出土されています。別の場所で一度埋葬されていたものを再度洞窟内に持ってきた形の「再葬」ではないかと推測されています。

バクチ穴

(別称:羽根堀洞窟、長田山洞穴)

東山 石灰岩 縄文土器、石甕(いしがめ)、石鏃(せきぞく)

布佐洞穴

川崎 石灰岩

■人工遺物

縄文土器、石器(小型石斧、横型石匙)

■自然遺物

人骨、哺乳鋼骨、貝類

石灰岩の洞窟「布佐洞窟遺跡」

※※ 入洞には、危険を伴います ※※

※※ 許可なく立ち入りはできません ※※

布佐洞窟遺跡入口
向かって右側の「地蔵穴」は途中で行き止まりになっています。
布佐洞窟遺跡入口の案内看板
布佐洞窟遺跡入口の案内看板
布佐洞窟遺跡_胎内くぐり
 「胎内くぐり」は道が狭く、しゃがまないと進めません。
布佐洞窟遺跡_岩肌
 「幽玄洞」は照明があるため、部分的に緑色のコケがみられますが、「布佐洞窟」では石灰岩が溶けてそのままの状態の肌が見えますね。

一関市教育委員会文化財課 文化財調査研究員 畠山篤雄氏②

<篤雄さんの解説つきでご紹介!>

 布佐洞窟遺跡は、全長が「1,292m+α」と巨大な洞窟です。「+α」というのは、「まだ調査されていない場所も含めている」ということ。もしかしたら、当時計測された長さより、もっと伸びているかもしれません。

  昭和元年(1925年)に小田島禄郎氏が初めて調査を行いました。

 入口の案内看板で水色に示されている場所は床部分に水が流れている場所になります。この案内看板の図面を作図したのは、菊地敏雄氏(東山ケイビングクラブ代表)です。


 

~ 次号予告 ~

布佐洞窟遺跡の案内看板の作図を行った

菊地敏雄氏(東山ケイビングクラブ代表)にお話を伺います!!

 


<取材協力>

一関市教育委員会文化財課 畠山篤雄さん

東山ケイビングクラブ 菊地敏雄さん

 

<参考文献> ※順不同

編者・洞窟サイエンス編集員会(2009)『洞窟の不思議とそこに生息する生き物たち どうしてできるのか?なにが存在するのか? 』

発行人・塩谷茂代 、編集人・尾崎清子 、発行所・イカロス出版株式会社(2012)『ニッポンの洞窟-暗闇に息づく神秘を訪ねて』

上野俊一、鹿島愛彦(1978)『洞窟学入門 暗黒の地下世界をさぐる』

東山町史編纂委員会(1978)『東山町史』

岩手県教育委員会(2000)『岩手の洞穴遺跡』

 

※現地調査等にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました! 


 

↓実際の誌面ではこのように掲載されております。

2025idea10月号 自由研究 キャプチャ画像

 

 

後編