(idea 2017年12月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

二言三言

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バスケで学んだことを子ども達に伝えるため、東京から一関へ

対談者 岩手県立大東高等学校バスケットボール部 顧問 新井靖明さん

聞き手 いちのせき市民活動センター 支援員 佐藤大輔

プロになるまでの道のり

【佐藤】今年4月から大東高校に赴任されてきた新井靖明(あらいやすあき)さんですが、先生になる前はプロバスケットボール選手として名古屋市、埼玉県、仙台市のチームに所属し各地で活躍されてきました。今回は一関に来るまでの活動と一関に来てからについてお聞きしていきたいと思いますが、まずは新井さんとバスケの出会いを教えてください。

 

岩手県立大東高等学校バスケットボール部 顧問 新井靖明さん

 

 

【新井】僕は東京都出身で、小学2年生の時にバスケを始め、6年生の時に全国2位になり、それで急にバスケが楽しくなったんですよね。当時バルセロナオリンピックや漫画「スラムダンク」でバスケがぐっと盛り上がっていた時期で、僕はこの頃に「プロバスケ選手になりたい」と思い始めました。中学に進学してからもバスケを続け、高校は秋田県の能代工業高等学校(以下「能工」)に進学しました。

 

【佐藤】秋田県の能工といえばバスケの名門ですよね。

 

【新井】進学先は色々迷いましたが、僕が中学生の頃に能工が3年連続3冠(「インターハイ」「国体」「ウィンターカップ」)を達成し、「どうせやるならそういうところでバスケをやってみたい」と思い進学を決めました。母の実家が秋田なので、小さい頃から遊びに行ったりしていて縁もありましたしね。

 

【佐藤】では、お母さんの実家から通学されていたんですか?

 

【新井】いえ、県外から来たバスケ部専用の下宿が2つあったので、そこに入りました。僕と同じようにバスケをやりたくて県外から来た生徒も多く、皆と一緒にバスケ漬けの毎日を過ごしました。家族と離れホームシックにもなりましたが、当時は携帯がなかったので実家からテレフォンカードを大量に送ってもらい公衆電話で話しました。他の生徒も同じ気持ちだったんでしょう、電話ボックスの前にはいつも長蛇の列ができていましたよ。

 

【佐藤】まだ中学を卒業したばかりですし、寂しい気持ちもありましたよね。

 

【新井】寂しかったですが、チームメイトとの楽しい思い出は沢山できましたし、「このままでは帰れない」「ここまできたんだから何か残したい」とかそういう気持ちが強かったです。高校卒業後、大学はその頃にバスケで日本一になった日本体育大学に行くと決め、そこでバスケを続けながら教員の免許も取りました。

 

【佐藤】そうなんですね。卒業後はすぐプロのチームに入ったんですか?

 

【新井】そうですね。卒業後すぐにJBL(Japan Basketball League)の三菱電機のチームと契約しました。僕らの代で大学からJBLに行けたのは全国で7人くらいかと思います。僕はJBLの愛知県で3年間、BJリーグの埼玉県で3年間、仙台市で2年間活動しましたが、プロになるとバスケが「職業」に変わり、当時は1年ごとに変化を感じました。1年契約で、選手たちがスポンサーを集めたり、怪我の影響で試合に出られず悔しい思いをしたり…。色々なことに悩み、バスケが嫌いになりそうな時も実はあったんです。

当時は「JBL」と「BJリーグ」の2つのリーグが存在していました)

 

【佐藤】取材の前に新井さんの選手時代のブログを読ませていただきましたが、チームメイトのこととか、ファンの言葉とか色々なことに悩まれていて、でも周りの環境にすごく真摯に接していましたよね。

 

【新井】いや~、お恥ずかしいです。情報発信は得意ではなかったんですけどね…。スポンサーを集めなきゃという時に、そこではファンの方との距離はすごく近く感じましたね。 

 

 

バスケを引退し、技術を教える立場に

【佐藤】仙台のチームに移籍したのは東日本大震災の1年半後ということですが、何か感じたことはありましたか?

 

【新井】はい。僕は震災が起きた時埼玉のチームにいましたが、震災でそのシーズンの試合がなくなりチームの活動がストップしたんですよね。それでチーム内でも「自分たちの契約はどうなるんだ」なんて話してましたが、移籍して仙台に来てみると全然そういうことではなく、沿岸の何もない風景とか被災の現場を見ると、関東にいてはわからなかった雰囲気の違いをすごく感じました。被災地支援として小学生にバスケを教えたり、気仙沼では地域の方々を試合に無料招待したりしましたが、その時に地元の方たちの想いを身近で感じましたね。

 

【佐藤】震災の時は、東北のために色々と活動してくださったんですね。教員を目指そうと思ったのはその頃だったんですか?

 

【新井】教員になりたいと思ったのは震災の後です。その頃僕は結婚を考えていたこともあり、働くためにチームに在籍しながら知り合いに頼んでバスケ以外の仕事をしていたのですが、「これからは自分の経験や学んできたことを、バスケを頑張りたいと思っている人に伝えたい」と思いまして。

 

 

【佐藤】現役だった頃からそのように意識し始めていたんですね。結婚を考えていた時期ということですが、奥様が千厩の方なんですか?

 

【新井】ええ。妻もバスケをしていたので活動には理解があります。

 

【佐藤】学校の先生になる時に、「岩手で」というのは奥様の地元だということを意識して選ばれたのですか?

 

【新井】それもありますが、小さい頃から行き来していましたし、高校の思い出もあり、東北が好きでしたから。最後は東北の仙台で引退したいと思っていましたし、その後も残りたいと思っていました。

 31歳で現役を引退し、平成26年の8月に岩手に来て、最初の赴任先は盛岡商業高校でした。そこでバスケの顧問をさせてもらいましたが、自分が教える立場になると伝えたいことがなかなか伝わらず。限られた時間の中で、どう伝えればいいのかとか色々と悩みましたね。

 

【佐藤】盛岡で顧問をされていた時に、岩手国体にも出場したとお聞きしましたが。

 

チーム「仙台89ERS」(エイティナイナーズ)に所属していた2012-2013シーズンの時の写真です。高校生の時からシュートの腕を磨き、以降はずっとシューティングガードのポジションでプレイしてきました。

 

【新井】はい。僕は声をかけてもらって、強化指定クラブ「ST-IWATE」という社会人チームのクラブに入り練習を始めたのですが、僕はもうバスケを引退していたしあまり気が進まなかったんですよね。でも周りの人達の国体にかける想いや熱意を感じて、「僕も頑張らなきゃ」という気が起きてきたし、一生懸命取り組むことで岩手県人になれるかなとも思ったんですよね。

 

【佐藤】国体が終わり今年から大東高校に転勤になりましたが、一関への転勤は新井さんが希望されたのでしょうか。

 

【新井】いや、希望したわけではないですね。昨年度までは講師だったのですが、去年教員試験に合格し、本採用後初めての教員生活が大東高校ということになります。今は大東高校で1年生の副担任と保健体育を専門に教えていますが、教えるというのは難しく、自分も日々勉強しています。そのほかにバスケ部の顧問もしていますが、部員は皆真面目に頑張っているし、どうしたら結果に結び付けられるだろうかとか、考えながらやっていますね。

 これからは自分も教員としての勉強をしながら、僕が今までやってきたバスケを生徒達にしっかり教えていきたいです。挑戦することは怖いし失敗するかもしれないけど、高校生だからどんどん挑戦して良いと思います。強いチームに堂々と立ち向かっていけるような、そんなチームを作っていきたいですね。

 

 

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 電話:0191-75-3116(事務室)FAX:0191-75-3117

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