毎月さまざまなテーマで地域づくりについて考えていくコラムです。

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第78話(idea 2025年9月号掲載)

今月のテーマ

 

地域運営の落とし穴 (62)

学生の「学び」と、地域の「やるべきこと」

 過去の本頁(2023年6月号掲載「若者はワカモノらしく」)でも扱ったように、「若者は政策や制度なんて気にしないで、若者らしく過ごして欲しい」と思っているのですが、相変わらず「地域課題の解決に若者(あるいは学生)の参加を」という見出しの記事をよく目にします。

 

 地域課題は、今に始まったことではなく、どちらかというと‘人の多かった時代の仕組み’が現代に合わなくなったり、隙間が生じてしまったのが要因。若者や学生は、そもそもの背景を知らなかったり未経験だったりするため、時には彼らの意見を聞きつつも大人世代がしっかりと議論するべきで、わざわざ巻き込む必要はないのです。

 

 学生は、本来すべきことがあり、学生時代だからこその時間を大切に過ごしてほしいため、私自身は学生の関わりをあまり意識していません。もちろん、好きで関わる学生もいますが、高等学校の「探究の時間」などが後押しし、地域の課題解決に学生が参加する構図が出来上がってきているのが現状です。しかし、ここで注意すべきことがあります。

 

 そもそも「探究(総合的な学習)の時間」とは、『変化の激しい社会に対応して、探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成することを目標にしている(文部科学省HPより引用)』ものです(小・中学校=「総合的な学習の時間」、高等学校=「総合的な探究の時間」)。導入された背景には、これまでの‘受け身の学習’から、自分事として疑問や課題を自ら解決しようとする力を磨いていく‘主体的な学び’へと転換する目的がありました。知識や情報を頭に入れる(インプット)だけでは応用が利かず、社会に出た時の対応能力の低下につながるため、自ら考える力を養い、柔軟な対応ができる人材育成の必要性から始まったのではと推測しています。

 

 つまり、「探究の時間」は、「なぜ?なぜ?」と考えていく論理的思考(ロジカルシンキング)を養うために導入されたのであって、課題解決の成果(アウトプット)を求めるものではないのですが、なぜか成果を求める風潮が強く……。大人側が「あのプロジェクトは、こんな素晴らしいことをやった」「学生らしい素敵な取り組みだ」など評価してしまっています。成果を評価するのではなく、学生が、何をきっかけに、どんな考え方をして、どのような対策を考えたのか、そのプロセスを評価してあげるべきなのです。地域づくりに学生を関わらせた際も同様の場面が散見されますが、成果が欲しいのであれば、大人が責任を持ってしっかり考え、予算をつけ、変わる勇気を持って取り組むべきです。

 

 そもそも、‘学生が感じる課題’と‘地域が感じる課題’はイコールではありません。学生に対し「地域の課題はこんなことがある」と、学ばせる(インプット)時点で、「この課題に対して何か考えて」とオーダーしているようなものです。‘誰かが考えた課題を考える’のと‘自ら課題と感じたことを考える’のでは、熱の入り方も違います。

 

 地域づくり事例として学生と地域が一緒に取り組んだものが挙げられたりしますが、その裏側では、複雑な課題が生まれていることもしばしば。

 

 大学生のフィールドワーク(調査対象となる現場に直接訪れて情報収集する研究方法)では、地域が大学生を受け入れて半年ほど一緒に活動することがあるのですが、数回続けていくうちに、地域側から「去年の学生は良かったが、今年の学生は……」と、学生の質を問うようになってしまうことがありました。学生を作業要員として扱ったことにより、地域住民が地域づくりに積極的に関わらなくなっていき、学生の受け入れが無くなった途端に地域だけで担いきれなくなってしまったのです。学生を当てにしすぎて、地域側の力が弱くなってしまった事例と言えます。逆のパターンもあり、一生懸命関わる学生たちの熱が入りすぎてしまい、自分たちのやりたいことだけが中心で、地域の意思決定とは異なり、住民を困らせる事例もありました。

 

 これらの事例はよくある話で、目的の喪失から生じることです。地域側は実践する側で、学生は実践ではなく学びが優先であるため、目的をはき違えないようにしましょう。

 

 

 

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