末裔調査 ファイル№1 「芦東山」

当地域には、様々な分野で地域内のみならず日本の発展に大きく貢献した偉人がたくさんいます。偉人として語り継ぐ中で、ついつい気になってしまうのが「その後子孫はどうなっている?」ということ。偉人の功績に関連のあるお仕事をしているのか、はたまた全く別の道を歩まれているのか……。今回は大東町渋民が誇る偉人「芦東山」の「末裔」を調査し、芦東山の偉業や人柄にも改めて想いを馳せてみます。

 

※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。

 

■近代刑法思想の先駆者

大東町渋民出身(当時は陸奥国磐井郡東山渋民村)の芦東山は仙台藩の儒学者で刑法学者。

 享保6年(1721)、仙台藩で儒教の知識によって仕える儒員に抜擢されると、その学識は高く評価され、江戸参勤の御供ともなりました。

 

 しかし、藩の学問所について藩主に意見したことで、43歳の時、仙台藩家臣の石母田家に「他人預け」の処罰として幽閉されます。66歳の時に「親類預け」となり故郷の渋民村に戻ると、翌年にようやく完全放免に。約24年もの間、自由に出歩けない生活を余儀なくされたのでした。

 

 この幽閉中に執筆した(※1)のが、日本の刑法思想の根本原理を論じた『無刑録』。60歳の時に完成しましたが、発行は許されないまま享年81歳で生涯を閉じます。

 

 没後100年を経過した明治10年、元老院(※2)より刊行されたことで世に知れられるようになり、近代的な刑法論書として高く評価され、刑法の参考とされました。

  

※1 東山は自由を奪われたが、かえって公務から解放され時間に余裕ができ、師匠の室鳩巣から頼まれていた刑法書のまとめ作業に取りかかった。

 ※2 明治初期の日本の立法機関。

 

芦東山 イメージ図

<芦東山>

 

・元禄9年(1696)、渋民村の肝入・岩淵卯左衛門の次男として生まれる。本名は岩淵幸七郎

 

・祖父の岩淵作左衛門が、熱心に東山を教育。その学才を見抜いた祖父により、7歳で奥州市水沢の正法寺の住職定山良光のもとに弟子入りした東山は、仏書だけでなく儒書にも詳しかった定山から儒教の古典である「孝経」を学んだ。

 

・15歳で仙台藩の儒学者・田辺整斎の門弟に。26歳で仙台藩の儒員になり江戸参勤の御供となった際、室鳩巣の門下生となったことで朱子学へ傾倒、朱子学重視の考え方がその後の幽閉へとつながる。

<無刑録>

 

『無刑録』は、刑の根本について説いた「刑本」から、過度な刑政を戒めた「濫縦」まで14編の構成。 

 中国の古典から刑罰思想に関する記述を抜粋し、中国諸家の解釈を紹介して東山の見解を加えたもの。

 

書名の「無刑」は、中国の「書経(尚書)」にでる「刑期于無刑(刑は刑なきを期す)」からとった言葉。

 

「刑罰は、刑罰が無くても犯罪が発生しない理想の世を実現するためのもの」という東山の思いが込められている。

※報復に主眼を置いた当時の報復刑論に対し、東山は人々の教育の充実を強調した教育刑論を唱えた 

■地元での教育活動

 66歳でようやく自由の身となった東山は、以後死去するまでの約15年間、仙台城下までの仙台藩領と一関藩領を歩き回り、様々な人と交流をしながら教育活動を行いました。

 

 特に地元・渋民においては、地元内外から教えを求めて東山を訪ね来た人々に向けての教育のほか、医師でもあった東山は、精力的に医療活動も行ったのだとか。

 

 東山を熱心に教育した祖父の岩淵作左衛門は「地域に教育を持ち帰り、それを集落に広めて欲しい。分け隔てなく教育を受けられるということを集落が知り、みんなで知恵をつけて良い暮らし(良い集落)となるように」という願いで東山に教育をしたと言います(芦全さん談)。

 

 東山が幽閉されるに至ったのも、学問所における学生の席次が家の身分格式の序列、次いで長幼の順になっていることに対して疑問を呈したことにあります。儒学の考えとともに、祖父の信念をしっかりと引き継いだ東山の教育への想いが現れています。

 

 渋民ではもちろん、当市における誇りである芦東山。果たしてその末裔はどこでどのような生活をしているのでしょうか……!?

 

<末裔ファイル1>

芦東山 → 芦全さん

芦 全(あし ぜん)

 

昭和36年生まれ。「深芦」の芦家14代目。

 

芦東山の実兄の子孫であり、芦東山の生家の家督。

 

職業は会社員。

 

 東山は28歳の時に登米郡米谷(現宮城県登米市東和町米谷)の給人領主高泉家の侍医・飯塚葆庵の娘「チョウ」と結婚。幽閉前後に5人の子どもをもうけますが、幽閉先で1男3女を失います。次女の「サク」が家系図上では唯一の成人した子ですが、サクは下女・益との子であったとか。

 

 サクは、仙台藩儒員の畑中太忠のもとに嫁ぎ、4人の子(東山直系の孫)に恵まれます(※)。そのうち、次男にあたる白華が5人の子(直系のひ孫)に恵まれ、次男の尚甫には2女(直系の玄孫)が。長女は6歳で亡くなっていますが、次女の子(直系の来孫)がテフであることまでは追跡できています。

 

 テフは花巻に嫁ぎ、晩年は奥州に居たとされていますが(昭和9年79歳で逝去)、残念ながらテフ以降の東山直系子孫(例えばテフの子=直系の昆孫など)については、現段階では資料等が見つかっていません(それぞれの時代にお妾さんがいて、そこに子どもがいた可能性もありますが、そうした記録は残されていない)。つまり直系の子孫の現在は不明……。

 

 ですが、生家は守られています。6人兄弟(義兄を入れると7人)の3男である東山。生家(岩淵家)の屋号は「深芦」で、長男の作左衛門(作兵衛)が継承し、東山が渋民村に戻った時には、その子(東山の甥)である宇(夘)左衛門が当主であり渋民村肝入を務めていました。彫刻家として著名だった宇左衛門のひ孫・正太郎が、岩淵から「芦」に苗字を変え、そこから6代を経て(正太郎→作左衛門→宇(夘)一郎→己之七郎→習一→昇→正八)現在は芦全さんが東山生家の家督を継いでいるのです。

 

※ 長男は若くに死亡、長女・次女は誕生年までは把握できているものの、その後の成長過程や結婚・子どもの有無、没年等は現段階では調査が進められていない。

芦東山の末裔へ インタビュー!

◆生家は東山の住んでいた頃のまま?

― 生家は約40年前にリフォームしているが、雨戸は昔のままと聞いている。ただし、東山がいたときのままかと言うと不明である。屋根は35年前に、かやぶき屋根からトタン屋根に変えた。

当時、家の敷地はぐるりと囲いがあったと聞くが私が生まれたときにはこの状態(囲いはなし)である。ここから見える室根山はきっと東山も見ていたことでしょう。

 

◆ご自宅に東山ゆかりの品や遺品等がある?

― 全て芦東山記念館に寄贈・管理してもらっているので、自宅にはありません。

※記念館ができるまでは生家で『無刑録』の原本などを保管していたが、明治期に分家した「伊勢堂」の祥平が他の分家や諸家に伝来していた東山関係資料を収集、遺稿集の編集に取り組んだ。

さらに伊勢堂4代目の芦文八郎(平成29年逝去)が昭和58年、自宅に「芦東山先生記念館」を創設、資料等の保存・公開をした。現在の芦東山記念館は、芦文八郎氏がそれらの資料を当時の大東町に寄贈したことを機に、平成19年に開館。

 

◆末裔としての苦労などは?

― 私が21歳の時に父(正八)が亡くなったため、東京からUターンし、その後は祖父から様々教えられながら、生家として、末裔としての役目を果たしているが、苦労は特にない。

 祖父からは小さい時から「東山に勉強を教えてもらうためにいろんな人がこの家に来たのだ」という話や、「芦東山の信念や生涯、芦東山の生家であること、自分はその家の長男・家督であること」を教えられていたので、小学校に上がるころには、それを理解し誇りに思っていた。

 高校生の時は、歴史に精通した先生方が自宅を訪問してくるなど、恥ずかしいなと(年頃だし)感じたことはあった。また、裁判官や警察署長などのお偉いさんが家を訪ねて来ることがあり、さすがに緊張する。一般の人でも「芦家の生家を見たい」とバイクや車で庭に上がってくることがあり、対応はするがビックリしてしまう。

 

◆ズバリ次の後継者は?

― 息子が3人いる。誰が継ぐかはわからないが、誰かは継いでくれるといいなと期待しています。

芦東山 生家

現在の芦東山生家。東山の父は渋民村の肝入でもあり、その後も代々肝入を務めた由緒ある家。リフォームはされているが、場所は変わっていない。

掬水の丘から望む室根山

芦東山記念館にある「掬水(きくすい)の丘」から望む室根山。生家はすぐ近くにあり、芦東山もこうした風景を眺めたのでは。掬水の丘には東山の祖父の墓碑がある。


芦東山記念館

一関市大東町渋民字伊勢堂71-17

TEL:0191-75-3861

 

東山の生涯と業績を映像やグラフィックを使って分かりやすく展示。周辺には、芦東山の生家や墓地、終焉の地などゆかりの地が10か所ほど点在し、室根山を眺めながら、気持ちの良い散策も楽しめる。芦東山先生顕彰会によって設置された看板もある。

 

 

<取材協力>

芦東山記念館 学芸員 小味浩之氏 /芦東山記念館 専門学芸調査員 張基善氏

 

<参考文献>

芦文八郎(1995)『生誕三百年記念 蘆東山先生傳』/  大藤修(2012)『仙台藩儒学者芦東山の生涯と関係史料の伝来・構成:付「芦東山記念館所蔵史科目録」』 / 芦東山著・橘川俊忠校訂(1998)『芦東山日記』

 

↓実際の誌面ではこのように掲載されております

idea11月号 自由研究 誌面キャプチャ画像

◆誌面で掲載できなかった取材メモ◆

今回の企画にあたり、担当スタッフが各種文献を読み、時系列に整理した東山の生涯(一部)をご紹介します。

※なお、あくまでも文献等からの抜粋であり、内容に関しての事実確認はしておりませんのでご了承ください。

 

<芦東山の幼少期から幽閉~赦免まで>

・元禄9年11月23日、渋民村のまとめ役である肝入、岩淵卯左衛門の次男として生まれる。

・祖父の岩淵作左衛門が、芦東山(以下、東山)の教育を熱心に行い、東山の学才を見抜いた祖父は、元禄15年(1702)奥州市水沢の正法寺の住職定山良光のもとに弟子入りをさせる。この時東山7歳。

・住職の定山は仏書だけでなく儒書にも詳しく、東山に儒教の古典である「孝経」を教える。

・宝永5年(1708)、13歳となった東山は母とともに仙台の親類宅へ行く。つつじが岡を見物した際、釈迦堂碑(四代藩主伊達綱村が自身の母の供養のために建てた碑)について母に説明していたところ薬種問屋大和屋の星久四郎が通りかかり、東山の知識に驚き、仙台でさらに学問することを勧めた。

・宝永7年(1710)、15歳となった東山は仙台に行き、仙台藩の儒学者である田辺整斎※4の門弟となった。(その後、武士に準ずる身分として帯刀も認められる)

・享保6年(1721)、26歳となった東山は五代藩主伊達吉村(以下、吉村)によって儒員に抜擢され、御前講義や江戸参勤の御供などを行う。吉村は東山の学識を高く評価した。

・享保8年(1723)、28歳となった東山は登米郡米谷(現宮城県登米市東和町米谷)の給人領主高泉家の侍医 飯塚葆庵の娘「チョウ(おんなへんに召)」を娶る。

・享保12年(1727)、苗字を「岩淵」から「芦」に改名。「芦」は先祖の第二のふるさとである下野国の「芦野」にちなんだ。

・江戸では、室鳩巣(むろきゅうそう)(以下、鳩巣)※5の門下生となる。この出会いが東山の大きな転機となり、以後朱子学※6へ傾倒し仙台藩の主流であった崎門派(きもんは)※7と距離を置くこととなる。後の無刑録は、鳩巣から刑法書の著述を頼まれたものと言われている。

・享保20年(1735)、高橋玉斎(たかはしぎょくさい)(以下、玉斎)※12が藩校・学問所設立案(藩士の旧宅を転用した比較的小規模な学問所で礼法と弓術を重視)を提出し、この案が採用される。

・藩校・学問所(のちの養賢堂)設立後、所長にあたる「主立」に玉斎が、「講釈及び読書指南(今でいう教師?)」に玉斎、東山、遊佐毅斎、佐藤吉之丞(以下、吉之丞)が任命される。

・朱子学重視の東山と闇斎学※8の玉斎は、学問的に立場が異なり、学問所設立後もその運営などをめぐり意見がぶつかった。

・元文2年(1737)、東山と吉之丞連名で(後に東山単独で)、これまで学生の席次が家の身分格式の序列、次いで長幼の順になっていることに対し、東山は学問修業の場に世俗の身分序列を持ち込まないことが儒学の礼にかなった運営の在り方であると考え、身分の上下にこだわらない学問所の改革案を提出。

・同じ年の11月、次女「サク(おんなへんに足)」が誕生する。

・元文3年、東山43歳。前年の意見書が藩の忌憚にふれ、評定所において重臣の石母田氏へ預けられる「幽閉処分(他人預け)」を受けることとなった。(行動を共にした吉之丞も、家禄半分を没収され閉門と厳しい謹慎処分を受ける)

・幽閉中、東山自身や妻、娘、親類、弟子などが繰り返し藩に赦免願いを出すも認められず。

・宝暦11年(1761)、東山66歳。七代藩主重村の婚姻により、「他人預け」から「親類預け」となり故郷渋民村に戻る。

・宝暦12年(1762)、六代藩主宗村の七回忌により、「親戚預け」も赦免となり自由の身となる。このとき東山66歳。

 

※4 江戸時代前期から中期にかけての仙台藩士。仙台藩の儒学者かつ神道家、歴史家。朱子学のなかの、京学。

※5 江戸時代中期の儒学者。

※6 儒教の新しい学問体系のうち、京学派。

※7 朱子学派のうち山崎闇斎を祖とする儒学派。南学派。山崎闇斎は朱子学と神道をむすびつけて垂加神道 (すいかしんとう)を唱えた。

※8 山崎闇斎を祖とする朱子学の一派。実践躬行(きゆうこう)を重んじたのが特色で、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。

 

<時代背景と仙台藩学問所の設立>

・江戸時代中期、社会と経済が複雑化し様々な問題が発生する。江戸幕府と諸藩はそれに対処するため、高度な行政能力を備えた人材育成に力を注ぎ、組織的、体系的な教育を行う学校への関心が高まり、元禄3年(1690)幕府直轄の学問所を移転・拡充する。また、諸藩でも藩の学校設立が活発化する。

・仙台藩では、四代藩主の綱村が元禄16年(1703)に退き、吉村が五代藩主となる(~寛保3年(1743)まで治世を担う)。綱村の時代に、寺社の造営が盛んに行われ、仙台城の改築工事や幕府が命じた日光東照宮などの普請などが重なり、財政は深刻な状況に陥っていた。そのため吉村の時代には財政を立て直すべく、それを担うための人材育成が必要との認識が芽生え、藩校設立の機運が高まっていた。

・享保6年(1721)、奉行職の遠藤文七郎が、家臣の子弟への教育を提案し意見書を提出したが受け入れられず、かえって処分を受ける。(このとき東山も学校を設立して賢才を登用することを主張するも取り入れられず)

・享保20年(1735)、玉斎が学問所設立案提出し、採用される。

・学問所・藩校(のちの養賢堂)が設立された。以後、移転・施設の充実等改革が行われた。

 

<五代藩主吉村、なぜ東山に厳しい処分をくだしたのか?>

・藩主の吉村は、家督を宗村(六代藩主)に譲る際、「自分は東山に対して何の憎しみもないが、東山は学問に優れており、赦免すると感化されるものがでて国政の害になる。そのため一生赦免してはならぬ」と遺言した。身分格式や上下関係が社会の基本秩序であった江戸時代では、東山の平等主義思想は、それを害するものとみなされた。

 

<東山、赦免後の足取り>

・宝暦12年、自由の身となった東山は、以後死去するまで仙台城下までの仙台藩領と一関藩領を歩き回り、さまざまな人と交流し、教育活動を行った。

・東山の住まいは、教えを求めて子どもたちを連れて来た親など地元の人々と各地から訪れた人々で賑わった。

・医師でもあった東山は幽閉赦免後、精力的に教導・医療活動を行った。

・安永5年(1776)、6月2日。東山は生涯を閉じる。享年81歳

・辞世の句は、「天の原心は清くありぬべし 身はあらがねの土となるとも」

・墓地は、生家・深芦 芦家の後ろにある小高い丘にあり、両親と妻と一緒に眠っている。

 

<無刑録の完成と出版まで>

・東山とその家族は、居住は与えられていた。しかし、石母田家の家臣に24時間監視される生活で、外部との接触はごく限られていた。

・東山は、自由を奪われたが、かえって公務から解放され時間に余裕ができた分、鳩巣から頼まれていた刑法書のまとめ作業に取り掛かる。

・「無刑録」は、刑の根本について説いた「刑本」から、過度な刑政を戒めた「濫縦」まで14編の構成。中国の古典から刑罰思想に関する記述を抜粋し、中国諸家の解釈を紹介して東山の見解を加えたもの。

・書名の「無刑」は、中国の「書経(尚書)」にでる「刑期無形(刑は刑なきを期す)」からとった言葉。

・「刑罰が無くても犯罪が発生しない思想の世を実現するためのもの」との東山の思いが込められている※10。

・東山は生前「無刑録」の出版を試みたが実現できなかった。

・東山逝去後、現行の清書や筆写を親族や門人・知人が行い、それらが各地に流布し、「芦東山」と「無刑録」が徐々に知れわたるようになり明治時代に入って刊行される下地となった。

・「無刑録」の草稿は15冊現存しており、「原本無刑録」の名称で岩手県指定有形文化財に指定されている。

・「無刑録」が全国的に知られるようになったのは明治10年(1844)、元老院蔵版「無刑録」の刊行によるもの。

・現代語訳付き「無刑録訳注」18冊(大東町教育委員会1974~2005)刊行。後に6冊本として再刊行(一関市教育委員会 2007)している。

 

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