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(idea2022年月11月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

くらし調査 ファイル№19「こうせん粉」

 前号で「たばこどき」について調査する過程で、中高年世代に向けて「幼少期のおやつ」に関するヒアリングも行いました。その中で聞かれたのが「こうせん粉」という回答。中高年世代にとっては「なつかしい」ものである一方、平成生まれ世代では見聞きしたことのないという人も多い「こうせん粉」。当地域において「こうせん粉」はどれほど馴染みがあり、いつ(まで)・誰が・どのようにして食べていたのか、調査してみました。                                 

                   ※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。

 

 

■身近な存在だった大麦とこうせん粉

 

 「こうせん(粉)」焙煎した大麦を挽いて粉にしたもので、地域によっては「はったい粉」「麦こがし」と呼びます。落雁など、和菓子の材料としても使われますが、当地域では「そのまま食べた」「お湯で溶かして食べた」など、こうせん粉そのものをおやつのような位置づけで食べたようです。

 

 その歴史は古く、日本には小麦よりも早く伝わり、奈良時代には日本各地で栽培されていたとか。現在では輸入が主となっている大麦ですが、当地域でも昭和30年頃まで盛んに栽培されており、旧花泉の数値を見ると、昭和35年頃までは5割近い家庭で大麦を栽培していました(花泉の場合小麦の方が多く、小麦は7割強)。旧千厩町の数値では、昭和50年でも5割強の家で麦(大麦・小麦の割合不明)を栽培していたことに。ちなみに、令和2年の農林業センサスによると、当地域で現在販売を目的として大麦を栽培しているのはわずか2経営体のみです(自家用は把握不可)。

 

 現代のようにお米の収穫量(≒作付面積)が多くはなかった時代、大麦はお米の代用食として貴重な存在でした。大麦と小麦とでは、タンパク質の成分が異なっており、小麦が伸展性・膨張性に優れる「グルテン」なのに対し、大麦は吸水性に優れる「ホルデイン」。この特徴を活かし、「はっと(すいとん)」や「うどん」には小麦を用い、「かて飯」として、お米と一緒に麦を炊く「麦ごはん」には大麦が用いられました。ただし、当時の大麦は外皮が剥けにくく、火が通りにくかったり、取り除けなかった外皮がゴワゴワして美味しくなかったという声も。「こうせん粉」は、大麦の食べにくさをカバーし、長期保存も可能とする、生活の知恵なのかもしれません。

 

~昭和50年代頃まで!生活を支えた大麦

 『磐清水村史』によると、昭和30年の作付け面積は大麦が701反、小麦が410反であるのに対し、米は121反。山間部など、水稲栽培の圃場整備が遅れた地域においては、栽培しやすい麦類を可能な限り作付けしていたと推測。

 

 また、麦類を多く栽培していた当時は、水車や石臼を使って、自力で製粉していた家も多いようですが、集落規模で製粉屋があったという話(千厩、大東のヒアリング結果より)や、製麺屋が製粉と製麺をしていたという事例も。

 

 ちなみに、製粉をお願いする際には、現金で支払うのではなく、原材料を提供する(収穫した麦類を持ち込み、そのうちの何割かを製粉屋に納め、その対価に見合った量を製粉してもらう)というパターンが主流だったようです。

 

 同様に、麦類と魚や肉などを、物々交換することもあったと言い、「食糧」としてだけでなく、お金のような役割も担っていたようです。


 大麦はイネ科の植物で、大きく「二条種」「六条種」に分けられます。その中で、「はだか麦(子実の外皮が剥がれやすく、粒が裸になる種)」「もち麦(もち性遺伝子型を有する品種)」など、品種が複数存在します。麦作に熱心だった千厩町磐清水・濁沼の藤野芳右衛門という人物は「東山一号」という大麦の新品種を創り出したという記録も

 

 なお、「押し麦」は外皮を剥いた大麦を蒸してから平たく加工(圧ぺん)したものであり、一般的にはうるち性の品種が使われているようです。

 

 

こうせん粉を食べてもらった

 

 世代によってはその存在すら知られていない「こうせん粉」。果たして当地域では現在のどの世代を中心に食べられていたものなのか、また、どのような食べ方をしていたのか、実食も交えた調査を行いました!(当センター主催イベント「いちのせき市民フェスタ22」の中に調査ブースを設置し、参加団体や会場に訪れた一般来場者合計33人にご協力をいただきました)

 

 「こうせん粉」を知っているかどうかを尋ねた結果が下のグラフです。

 

昭和55年(今年42歳)以前生まれの方の多くは存在を知っており、かつ食べた経験もあるようです。一方、平成以降生まれだとほぼ認知されておらず。唯一「知っていて食べた事がある」と回答した方は、今でも家族がたまに食べているとのことでした。

Q「こうせん粉」を知っていますか?

こうせん粉グラフ

 

 次に、食べた経験のある方(18人)に、食べ方について尋ねた結果が下の円グラフです(複数回答可

にした結果、回答数は20)。最も多いのが「砂糖を加えてお湯で溶く」という食べ方で、どの年代でもこの回答が。なお、「そのまま」を選択した4人は昭和30年以前生まれの方々でした。

 

 また、「どんな時に食べていたか」という問いに対しては、8割近くが「日常のおやつ」でしたが、日常的にではなく、「病気や妊娠中などの栄養補給」として食べていたという方もいました。

Q どんな食べ方をしていましたか?

こうせん粉円グラフ
ファスタ22のブースの様子

 

◀実際の調査の様子。ベトナム出身の若者たちからは「ベトナムにも同じような食べ物があり、朝食に飲む」という情報をいただきました。なお、今回初めて「こうせん粉」を食べた人からは「美味しかったが、好んでは食べない(砂糖入りでも)」という声が多い中、砂糖なし版を「日常的にも食べたい」と答えた平成以降生まれも存在していました!

 

 

 

畑を有効活用!間作栽培の知恵

 

 「麦畑」と聞くと、広大な土地で黄金の穂が揺れている光景をイメージしてしまいがちですが、当地域における昭和30年代頃までの麦栽培は「間作栽培」が基本でした。全国で見れば、水稲と大麦の二毛作(同じ圃場にて、冬~初夏にかけて大麦、初夏~秋にかけて水稲)をしている地域が多いようですが、当地域では大麦と葉たばこ、もしくは大麦と豆類の「間作」が主流!

 

 

 「間作」とは、ある農作物の畝と畝の株の間に他の作物を植えて栽培することで、「限られた畑の土地を有効に活用する」という考え方によるものです。加えて、麦を刈り取った後の根元を残したまま、葉たばこなどに「土寄せ」することで、株のふらつきを押さえるだけでなく、保温効果や追肥的な効果も期待できたのだとか。さらに、葉たばこにおいては、「タバコモザイク病」という「タバコモザイクウイルス」による感染症を防除する効果も。ただし、間作では収量に限界が出てくるため、当地域で葉たばこ栽培がピークとなった昭和30~40年代には、葉たばこ栽培を優先し、麦類との間作は減っていきました。


▲小麦・大麦ともに、畝を立てて栽培(左写真は大東町摺沢地域で小麦栽培を行う農家さんの畑)。当時は麦畝の間(色付けした部分)で葉たばこ等を栽培し、麦の刈り取り後は残った株ごと土寄せを行いました(右イラスト参照)。

 

 

 「生きるために必要な食糧を得る」ために、間作などの工夫をしながら麦を栽培してきましたが、水稲の栽培環境も整い、さらに「商品経済」が発達したことで、農家においても「換金作物」の方が重要になっていき、それまで暮らしを支えてくれていた麦は急激に姿を消していきました。地域差はありますが、ヒアリングや文献資料から推測するに、概ね昭和35年頃が転換期だったようです。

 

▼当地域における間作栽培のスケジュール。麦は秋に種を蒔き、5枚の葉がついたら1回目の「麦踏み」をし、「分けつ」させます。2~4回目は霜柱で根が持ち上げられるのを防ぐことが目的です。葉たばこは直播きせず、苗床である程度育ててから間作場所に定植します。

  2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月
麦類 麦踏み③ 麦踏み④ 出穂 登熟

刈り取り

はせ掛け

脱穀   土づくり

種まき

麦踏み①

 麦踏み②

葉たばこ

or

豆類 

  種まき   定植 土寄せ

 心止め

 収穫=====➡

残幹処理

(耕起)

   
      種まき 土寄せ       収穫  =======➡

<参考文献> ※順不同

東山町史編纂委員会(1982)『東山町史資料編』/大東町(1982)『大東町史 上巻』

大東町(2005)『大東町史 下巻』/大東町(1970)『大東町史料 第一集』

大東町(1972)『大東町史料 第三集』/藤沢町編纂委員会(1979)『藤沢町史 本編上』

藤沢町編纂委員会(1984)『藤沢町史 本編中』

岩手県千厩町磐清水公民館(1957)『磐清水村誌』/薄衣村史編纂委員会(1972)『薄衣村史』

編者/弥栄中学校 発行/松崎徳勝(1973)『郷土誌 弥栄の里』

編者/松本博明 発行/一関(2011)『一関厳美町文寺の民族』/門崎村(1956)『門崎村史』

黄海村史編纂委員会(1960)『黄海村史』/岩手県教育会東磐井郡部会(1975)『東磐井郡誌』

千厩町史編纂委員会(2000)『千厩町史 第四巻 近代編』

岩手県藤沢町(1966)『藤沢町総合調査』/東山町文化財調査委員会(1982)『東山町史 資料編』

真滝村誌復刻委員会 蜂谷 艸平(2003)『復刻 真滝村誌』

社団法人 奥玉愛林公益会 奥玉老人クラブ連合会(1988)『奥玉村誌』

花泉町役場(s32,s37-s40,s42-s47,s49-52,s54-s58,s59-62,h1-h2,h5,h9,h13)『花泉町町勢要覧』 

千厩町役場総務課(1965)『千厩町勢要覧』/千厩町(1977)『千厩町勢要覧』

 

↓実際の誌面ではこのように掲載されております

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