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本誌に誤解を招く表現がありました。

お詫びして訂正(補足)させていただきます。

 

【 「センターの自由研究」 10頁上段2段落目 (610行目)

 

<補足事項>

・市内各地でヒアリング調査を行った結果、各地に「お茶屋」があり、古いお茶屋の例として明治19年創業の「常州園」の名前をあげました。

「常州園」においては、当時から顧客は多く、明治19年の創業から現在に至るまで経営を続けられています。

・一方、特に農村部などでは、「茶葉を購入する」という行為は、戦後の復興期以降だった(それまでは自家栽培やその他の飲み物が主流)という声が多く聞かれました。

・上記をふまえ「お茶屋そのものは戦前から複数存在していたものの、現在のように一般家庭で気軽に購入できるようなものではなく、農村部などの裕福とは言えない家庭が茶葉を購入するようになったのは戦後の復興期以降だった」ということを表現しようとした文章でした。しかし、文脈上、「常州園に茶葉を買い求める一般家庭が戦前にはいなかった」ように見受けられなくもないことから、常州園においては戦前から顧客が多数存在していたことを補足させていただきます。

・なお、ここで言う「一般家庭」は、「当市域内の、その時代における平均的な暮らしを行う家庭」を意味しており、実際のヒアリングや文献調査を元に総合的な把握をしているつもりではありますが、商売人等が多く居住する地区などとは暮らしの様子が異なる可能性もありますので、ご了承ください。

(idea2022年月8号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

くらし調査 ファイル№17 「来客に出す飲み物」

 来客には「コーヒー」を出すことが主流となった現代において、ふと湧いた「コーヒーが流通する前は何を出していたの?」という疑問。当地域の一般家庭に「コーヒーを飲む」という文化が訪れたのはいつ頃なのか、そしてその前にはどんな飲み物をお出ししていたのか……調査をする中で見えてきたのは、当地域における「お茶栽培」の歴史と、「お茶っこ飲み」という概念への落とし穴でした!                                     

                   ※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。

 

 

■日本のコーヒー史

 

 コーヒーが初めて日本にもたらされたのは鎖国中の長崎。オランダ商人が持ってきたものの、通訳や役人など「ごく限られた人々」の間で飲まれた程度でした。

 

 日米修好通商条約の締結(1858年)により、コーヒー豆は正式に輸入が開始され、明治21年(1888年)に日本初の喫茶店「可否茶館」が東京にオープンすると、コーヒーを提供する喫茶店が東京で増加。明治42年、ブラジル政府がコーヒー普及を目指して日本進出するなど、日本への「コーヒー文化」の浸透が国内外で進められます。

 

 インスタントコーヒーの登場は大正時代。大正3年、日系2世加藤サルトリが発明したインスタントコーヒーが日本で特許を取得し、販売を開始します。大正9年には現在の「キーコーヒー」の前身が創業するなど、コーヒー商の需要が増加。

 

 国内生産初のインスタントコーヒーは「森永」が昭和35年に発売した、その名も「インスタントコーヒー」。昭和42年には「ネスレ」も「ゴールドブレンド」を発売。この頃には「コーヒーガム」や「コーヒー牛乳(テトラパック)」なども登場します。

 

 

当地域のコーヒー史

 

 一方、当地域に初めて喫茶店ができたのは大正12年とされますが、一般庶民が喫茶店に行くようになったのは昭和30年代。一ノ関駅前周辺に複数の喫茶店がありました。

 

 インスタントコーヒーが各家庭にも普及し始めたのは昭和40年前後と推測。昭和35年以降に発売された各種インスタントコーヒーの写真とともに行ったアンケート(市内各地の中高年層34人に実施)では、昭和35年に「ゼネラルフーヅ㈱(現・味の素)」が発売した「マックスウェル」は、41%の認知度だったのに対し、昭和42年にネスレが発売した「ゴールドブレンド」は82%、ほぼ同時期に発売された「ネスカフェ・エクセラ」は94%の認知度となっています。

 

 興味深いのがこのインスタントコーヒーの飲み方。「コップの底が見えるほどの薄さに、甘味料でかなり甘くしていた」という証言多数!コーヒーに馴染みのない一般家庭にはブラックコーヒーは「苦くて飲めなかった」とのこと。

 

 また、一般家庭にも普及したとは言え、コーヒーは嗜好品であり、日常的に飲むものではないため、「おもてなし」や「贈り物・お土産品」という位置付けにありました。そのため、砂糖がまだ貴重だったことも相まって、「砂糖を大量に入れたコーヒー=非日常のおもてなし」という一面もあったようです。

 

■お客様に出す飲み物とは?

 

 先述の通り、インスタントコーヒーが当地域の一般家庭に普及したのは昭和40年以降。それ以前に出していたもので多かったのは「緑茶」「麦茶」「お酒(どぶろく)」です。

 

 緑茶の茶葉を扱う「お茶屋」は明治期には当地域にも複数店舗ありました。現在まで続く「常州園(一関市大町)」は明治19年の創業。ただ、一般家庭で茶葉を買い求めるようになったのは戦後だったと言います。

 

 驚くべきは緑茶を栽培していた地域が複数箇所あること。年貢として納めていたという記述のある文献(室根地域)や、主要農作物の中に記載されている地域(舞川地域等)も!自家用に栽培していた家も複数確認でき、茶葉は「お茶屋」や行商からの購入のほか「自家栽培」によって入手し、お客様に出していたことがわかりました。

 

 麦茶を出していたというケースでは、出荷用の麦を栽培する麦農家よりも、自家消費用の麦を栽培する農家の方が麦茶を飲んでいる傾向が。

 

 また、そもそも「昼間にお客様が来る」ことや、今でいう「お茶っこ飲み」という概念自体が、最近のものである可能性が。「お客様にはどぶろく」という回答が複数あったことから、お客様は夜に来る(≒寄り合い)ことが多いと推測。昼間に来るお客様も、日常的なものではなく、正月やお盆など「ひとよせ」の時に集まる「親類」が大半を占めていたと考えられます。 

豆知識: 貴重な存在だった「砂糖」と 庶民に普及した「人工甘味料」

 

  奈良時代に中国から伝わった砂糖。江戸時代にはサトウキビによる製糖(和糖業)が広まったものの、明治時代に入り、輸入砂糖が国内に流れ込んだことで和糖業は壊滅状態に。日清戦争後には近代的な製糖技術が入って来たことで、近代工場による近代製糖業が確立しますが、太平洋戦争によって粗糖が入手できなくなり、砂糖不足が深刻に……。

 

 終戦後、我が国には僅かな砂糖しかなく、昭和27年まで「配給制」となりました(昭和15年に「砂糖購入制限令」が施行、同年に「砂糖配給統制規則」が公布。昭和19年には砂糖の家庭用配給が停止され、代わりに隣組を通じて「紫蘇糖」を抽選で配給……等々、砂糖を巡る様々な動きあり)。

 

 砂糖の入手が困難を極める中、昭和20年に「日本火薬」が砂糖の代用品として「ズルチン」を開発。その他にも「チクロ」「サッカリン」「ミツゲン」などの人工甘味料が登場し、砂糖よりも安価で甘いということで、庶民の間でも広まります。当地域でも「ミツゲン」「サッカリン」を使ってコーヒーを甘くしていたという方が複数名いました。※その後、安全性の面から使用禁止となったものもあります。

 

昭和10年~40年代(戦時中除き)の当地域における飲み物事情 

(計77人へのヒアリングより)

普段の飲み物

・井戸水(水)

・緑茶(自家栽培/ランクの低い茶葉を購入)

※茶葉は1日中替えない

・麦茶(自家栽培)

・牛乳(ヤギ乳)

・豆乳(豆腐屋)

・どぶろく

・粉末ジュース

来客時に出す飲み物

・緑茶(客のランクに応じて茶葉のランクも変える)

・甘いコーヒー

・麦茶

・お酒(どぶろく)

今回のヒアリングで最もコーヒーを

甘くしていた記録は角砂糖3個!

備考(ヒアリングより)

 ・家庭訪問などで先生が来るときには良い茶葉を近隣の家に借りに行った

・お客様には一煎目を出し、家族には残った茶葉を色が出なくなるまで使い続けた

・今の80代以上の人たちは、当時、コーヒーを最初から砂糖と牛乳が入った状態で出していた


 

 

緑茶栽培のなごりを探してみた

  少なからず各地で聞かれた「緑茶を自家栽培していた」という話。5月の農家行事として「茶葉一番摘後一年置剪枝」と書かれた当地域の文献もあり、しっかりと栽培していた気配が……。「○○地域には今もお茶の木がある家があるよ」という噂を頼りに、当センタースタッフが実際に「当地域でも緑茶栽培ができる」ことを確認してきました!

 

 そもそも緑茶は「カメリア・シネンシス」というツバキ科ツバキ属の永年性の常緑樹で、「緑茶」「ウーロン茶」「紅茶」ともに全てこの植物から作られます。

 

平安時代に仏教の関連で日本に伝わったため、当地域でも、お寺やお寺と関連のあった神社の敷地内に植えられていることが多いとか。

 

 『一関市史第三巻』には「この地方でも昔は各戸で2~30本は茶の木を栽培して、茶を摘みそれを蒸して火の上で乾かしながら手もみして自家用の煎茶を製した」という記述が。『一関市史第四巻』の舞川地区の項にも「平安時代に入ると(中略)養蚕、紙すき等の副業的産業が盛んに行われるようになる。こうしたことが中世期以降には更に発達を遂げ、畜産、たばこ、紅花、お茶等の栽培に迄及んで来るのである」とあります。実際、舞川地区では「土手でお茶を栽培していた家がある」という情報があり、当センタースタッフも現地調査に行き、それらしき場所は発見!その他にもお茶栽培を伺わせる記述のある文献は複数あり、詳細まではわかりませんが、各地でお茶を栽培していたことは間違いないようです。

長島にあったお茶の木の画像

 

◀舞川と山を挟んで地続きの平泉町長島にてお茶の木発見!今は飲むことはないそうですが、先代(現在の80代)までは飲んでいた(摘む→干す→手でもむ)そう。50年程前までは周辺にもお茶の木を植えている家があったようです。

 

▲咲いている花はドクダミです
▲咲いている花はドクダミです

▲▶花泉町老松で確認させていただいたお茶の木。現在の家主さんの奥様が嫁いだ時にはすでに植えてあったそうです(採ったり飲んだりした記憶はない)。今は2~3本ですが、かつては法面に複数本あり、別の方からは「老松には茶畑があったと何かで読んだ記憶がある」という情報も(今回は残念ながら見つけられず……)。

お茶の木

<参考文献> ※順不同

前田求恭(2011)『日本の食文化史年表』

一関市(1977)『一関市史 第三巻 各説Ⅱ』

真滝村誌復刻委員会・蜂谷艸平(2003)『復刻  真瀧村誌』

一関の年輪刊行委員会(2000)『写真記録集 一関の年輪Ⅱ 二十世紀の一関』

静岡県・公益財団法人静岡県茶業会議所(2018)『知って得するお茶百科 お茶のしずおか』

ヘレン・サベリ(2014)『「食」の図書館 お茶の歴史』

江後廸子(2004)『南蛮から来た食文化』

ジョナサン・モリス(2019)『「食」の図書館 コーヒーの歴史』

中村洋一郎(2015)『番茶と庶民喫茶史』

↓実際の誌面ではこのように掲載されております

2022idea8月号 自由研究 キャプチャ画像

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