こんにちは。センターの狩野です。
この時期になると北方領土のことが報道等で取り上げられます。
現在、北方領土パネル展が、なのはなプラザ3階で開催されています。
昼休み時間を利用し会場へ行ってみました。
会場には、たくさんのパネル(数えると25枚)が掛けられ北方領土の紹介をしています。
◎2月7日は「北方領土の日」
2月7日は、北方領土の日。昭和56年(1981年)に制定されました。
1855年のこの日、現在の静岡県下田市において日露通好条約が調印されました。
この条約は、日本とロシアの間に通商を開くとともに、平和的な話し合いによって両国の国境を択捉島とウルップ島の間と定めました。これにより、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島は日本の領土として確定しました。これ以後、両国の国境は何度も変わりましたが、北方四島は一貫して日本の領土であります。
◎北方領土問題とは
択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方四島は、日本の領土であるにもかかわらず、1945年にソ連に不法占拠され、ソ連が崩壊してロシアとなった現在もその状態が続き実効支配が進んでいます。
日本固有の領土である北方四島の返還について、日本はロシアと話し合いを続けて交渉を続けていますが、ロシアの思惑から進展していないのが現状です。
毎年この時期、北方領土返還の啓発を行っています。
◎北方四島の面積は千葉県とほぼ同じ。
北方四島の面積の総計は5,036㎢で、沖縄県の約2.2倍、千葉県(5,156㎢)とほぼ同じくらいの広さです。また、四島のうち国後、択捉の両島は、いずれも沖縄本島より大きく、特に択捉島(3,184㎢)は鳥取県(3,507. ㎢)と同じくらいの広さです。
◎北方領土と岩手県の関わり
1793年(寛政5年)に、津軽と南部の両藩が幕府の命令で蝦夷地(北海道)の警備につくことになり、南部藩が藩兵383名を根室に派遣しました。
1799年(寛政11年)には、東蝦夷地を幕府が直接統治する直轄領とし、その警備には地域的にも近い南部藩や津軽藩が、その任に当たることになりました。
このように、南部藩は北方警備の任務のためにしばしば出兵をしました。主な駐屯地は箱館(現在の函館)、室蘭、根室、国後島、択捉島など東蝦夷地の広い範囲にわたっていました。
なお、昭和57年に当時の鈴木善幸首相が歴代首相として初めて北方領土を視察しました。
◎終わらざる夏の舞台 占守島
北方領土の地図を見ると、千島列島の最北端に位置する島が占守島(シュムシュ)。戦争当時はここまでが日本の領土で、旧ソ連とは海を挟んでわずか12km。
占守島の名を見て、浅田次郎著「終わらざる夏』を思い出しました。
太平洋戦争が終結した8月15日後も、南下するソ連軍との壮絶な戦いの場となった島。
この物語には岩手県の3人の人生を軸として書かれています。戦争末期、8月15日の玉音放送まであと1か月という時期に召集された3人。占守島に送り込まれた部隊で終戦を知っていても戦わなければならなかった両軍…。
会場の なのはなプラザ3階 は静かな所です。
北方領土に関する25枚のパネルから日本の歴史を振り返るひと時でした。
この催しは2月6日(金)までとなっています。
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