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(idea2021年月11号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
市内の「由来が気になる地名」について深堀りする「地名の謎ファイル」。前号で「水晶を摺り磨いたこと」が由来とされる大東町の「摺沢」を取り上げ、今でも水晶を採掘することができることを実証しました。ところが!調査の過程で、摺沢が元は「奥玉」の一部であり、「奥玉」という地名にも、水晶が絡んでいたことが判明!
そこで、水晶が採掘されたとされる「玉堀山」を中心に奥玉と摺沢の歴史を整理し、謎多き史実を妄想してみました。
※記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果です。
■「奥玉」と「あらたま」
前号(10月号)で大東町摺沢が「水晶の里」を代名詞としている由縁として、次のような通説をご紹介しました。
亀甲3年(726年)3月1日、坂本宿弥よいう者に神のお告げがあり、鶴ヶ峰から美玉(水晶)を採掘。これを国司・大野東人に献じた。大野東人はたいそう喜び、地中深く埋め、その社を建て「美玉神社(奥玉神社)」とした。
この「美玉(水晶)」を「摺り磨いた場所」が「摺沢」であり、美玉が採掘された「鶴ヶ峰(現玉堀山)」は摺沢にあることから、摺沢地区では水晶にちなんだ地域づくり活動に力を入れています。
同様に千厩町奥玉でも地名由来を先ほどの通説としており、摺り磨く前の原石である「あらたま」という言葉を地域づくり活動に多用しています。
ここで疑問。奥玉には「美玉」になった状態の水晶が埋められたはずなのに、なぜあえて「あらたま」を多用するのか?
実はかつて摺沢は奥玉の一部であり、先ほどの通説の時点(726年)では分離していません(厳密には通説時点では奥玉も明確ではない)。そのため、水晶の原石が採掘された「鶴ヶ峰」は奥玉領域だった時代があり、「あらたま」は確かに奥玉から採掘されているのです。摺沢では「摺師」と呼ばれる「水晶を摺り磨く職業」の人が存在したという話もあり、そうした摺沢との住み分けを図るために、奥玉では「あらたま」を前面に出していると推測できます
■「八町館」と「鶴ヶ峰」
ところで、水晶が採掘され、地名の由来にも関係してくる「鶴ヶ峰」を、奥玉はどうして摺沢に譲り渡したのでしょうか。
摺沢の独立は968年に「八町館」が現在の大東町摺沢但馬崎に建てられたことが始まりとされます。この館は後に「数流沢(するさわ)館」となり、「すりさわ」という呼び名につながっていきます(上述の地名由来の話と矛盾を感じた方は前号をご参照ください)。
この「八町館」の「八町」とは「方八町」という意味であるとされ、半径8町圏内を治める館。現在の但馬崎から鶴ヶ峰までは5㎞以上あり、8町(1町=約110m)では全く及びません。つまり、独立当初は鶴ヶ峰は奥玉領のままである可能性が!果たして摺沢領になったのはいつなのか……
~ 歴史の証人⁉
奥玉神社と櫻森神社
「奥玉」の地名の由来となった「興玉(奥玉)神社」は、現在の「櫻森神社」の敷地内にあります。726年、大野東人が坂本宿弥から献上された美玉を地中に埋め、そこに祠を立て「興玉大明神」を祀ります(のちに「興」が「奥」へ)。
蝦夷地平定の動きが盛んだった頃のため、791年には征夷大将軍・大伴弟麻呂が訪問し「猿田彦命」を奉納、810年には征夷大将軍・文室綿麻呂が訪問、桜を植え、この地を「櫻森」と命名します。1096年には藤原清衡公が「神鈴」を奉納、社地に桜を植え「櫻森社」となります。さらに1141年には橘城主・佐藤師久が「伊勢両宮社」を勧請し「櫻森神社」が創建されます。
葛西氏の時代にも供物を捧げて奉るほどでしたが、「葛西大崎一揆」の要因となる新領主木村氏の暴政などにより櫻森神社は荒れてしまいます。
1775年、安永風土記で櫻森神社の歴史が記録されると、それをもとに1776年、別当が「櫻森伊勢史碑」を建立し、奥玉地名発祥の地として改めてその価値が見直されました。この史碑こそが、地名由来の「通説」が刻まれたものなのです……!
考察!
奥玉が「玉堀山(鶴ヶ峰)」を摺沢に譲った由縁とは⁉
奥玉領だった現在の摺沢地区。その起こりとも言える「八町館」が安倍氏によって現在の但馬崎に築城された頃、奥玉には「橘城」があり、征夷大将軍が駐屯するなど、蝦夷地平定の一端を担っていました。
また、玉堀山の近くには「橘城」の支城である「羽根折沢館」があり、この支城がある間は、玉堀山も奥玉領のままなのではないかと推測。
果たして玉堀山が摺沢領に入ったのはいつ頃なのか、奥玉はすんなりと譲ったのか……
考察のヒントになりそうな史実をピックアップします。
※あくまでも素人の調査であり、史実の解釈を誤っている可能性もあります。
①水田開発と「奥玉」
平安時代後期、在地領主などが申請者となり、国衙領(国領)の未開地を開墾し、「保」として荘園のように権門勢力に寄進する動きが。平泉藤原氏下でも行われ、「興田保」「黄海保」が知られています。実はこの他にもう一つ「奥玉保」が存在していたという話が。保にすることで中央勢力に保護してもらいつつ、申請者は実質的な支配権を保てるので、水田開発等を目論んでの動きではないかと考えられます。
千厩川流域の奥玉地区は水田開発の自然条件を満たす場所であり、12世紀代に保として成立したと推測されています。つまり奥玉地区において重要な土地は千厩川流域の宿下、寺崎前、花貫、刈屋野等の水田地帯だったのかもしれません。
②産金と「林ノ沢観音堂」
「奥玉保」設立には「産金」も目的の一つとしてあげられます。奥玉保の開発を実質的に担った金一族の地盤は産金地・気仙。※金一族は気仙郡司だった豪族。
奥玉保の水田開発想定地の中間に「林ノ沢観音堂」があり、ここには平安仏などが確認でき、その付近には金山沢・金取沢といった産金にゆかりのある地名も。①②を考えると、奥玉は摺沢方面ではなく、千厩川周辺地帯を向いていたのではないでしょうか。
③摺沢岩渕氏と「長者屋敷」
摺沢には寛永19年の検地で岩手県下2番目の所有面積を有した豪農(菊地家)がおり、長者様と呼ばれました。そこから長者沢という地名ができ、検地帳では「長者屋敷」として記録されています。
この長者屋敷は玉堀山からそれほど遠くはない場所に本家があるため、県下2番目の所有面積を有したとなれば、玉堀山も長者屋敷の所有地だった可能性が!
長者屋敷は、16世紀、秋田に居住する菊地家が、従者とともに「摺沢城(=八町館)」の城主・岩渕家を頼りにやってきたことに起因します。源八に住み、岩渕家の家老をつとめましたが、数代後に上記長者屋敷周辺に土地等を与えられて別家します。
※この際「山7か所」という記録もある!?
ちなみに岩渕氏(摺沢岩渕氏)が摺沢城主となったのが1221年。葛西氏から摺沢領を拝領し、摺沢城に居住したとされます。
藤原氏の滅亡とともに葛西氏は5郡2保を与えられます(1189)。この5郡2保に奥玉は入っていないとされますが、後に奥玉「橘城」も葛西一族の居城になっており(その経緯や年代には諸説あり)、12~13世紀頃に奥玉や摺沢の領地には様々な変化(葛西氏が集約→分配)が起きていたのかもしれません。
④奥玉側からは行けない?
現在とほぼ同規模の領地が確立していたと考えられる1817年の「摺沢村絵図」を見ると、長者屋敷や羽根折沢館跡(のようなもの)、その付近の山の神などは確認できるものの、玉堀山は明記はされていません。
また、玉堀山があるはずの場所に続く道は、摺沢側にしかないような描かれ方……。玉堀山の存在を隠していたのでは?という妄想もできます(笑)
ちなみに、摺沢に伝わる記録には、近世に入って摺沢村と奥玉村が玉堀山を巡る境界争いをし、奥玉が玉堀山からは距離のある「深芦沢」の住人を証人としたために敗訴となったという旨が。なぜわざわざ不利になるようなことをしたのか……奥玉側には争いの記録や伝承が見受けられないこともあり、奥玉側では「争った」という認識はない可能性も……。
また、摺沢地区の羽根折沢や長者の子どもたちは旧「下奥玉小学校(後の千厩町立奥玉小学校下分校)」に通学しており、不仲だったわけではないものと推測。摺沢地区と同様、旧奥玉小学校も水晶(勾玉)が校章の中に模られているなど、近代では水晶が双方にとって貴重な地域資源になっています。
「奥玉神社」に大野東人が埋めた
「美玉」はあるのか⁉
ところで、大野東人が埋めたとされる「美玉」は現在も奥玉神社の地中に眠っているのでしょうか?好奇心にかられ、実際に奥玉神社に参拝してきました。
するとまさかの展開……「美玉」を拝見することができるというのです!宮司の奥玉昌代さんがそっと見せてくださったのは、片手には収まらない大きさの透き通る美しい「玉」!
しかーし……。実はこの「玉」、地中に埋まっていたものではなく平成12年に寄贈されたものとのこと。
もしかしたら今でも地中に埋まっているかもしれません……!
<協力>
村上達男さん
千葉貞一さん
摺沢史談会 会員 佐藤英機さん
その他当該地域住民のみなさま
<参考文献> ※順不同
千厩町史編纂委員会(1999)『千厩町史第1巻』
大東町(1982)『大東町史上巻』
一関市博物館(2013)『一関市博物館第20回企画展 地を量る―描かれた国、町、村』
摺澤尋常高等小学校編(1915)『摺澤村誌』
千葉貞一(2020)『仙台領奥玉村と寛政一揆』
一関市立奥玉小学校閉校記念事業実行委員会(2018)『一関市立奥玉小学校閉校記念誌』
岩手県(1961)『岩手県史 第二巻 中世編上』
宮城県(1987)『宮城県史復刻版27(資料編5)』
摺沢史談会(2019)『摺沢歴史マップ』
↓実際の誌面ではこのように掲載されております