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(idea2021年5月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

地名の謎 ファイル№3「狐禅寺」

 当市内には「何でそんな地名に!?」と目を疑うような字面の地名もあれば、「もしかして〇〇だったんじゃない?」と、素人ながら「推測」してしまうような地名も多々。今回は後者として「狐に由来があるに違いない」と推測される「狐禅寺」を調査し始めましたが、調査は思わぬ方向に……。確かに「通説」としては狐が関係していましたが、実際のところは……!?まさかの通説の裏話に迫ってしまいました。

※記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果です。

 

狐禅寺についての漫画

※1 青竹地内の「大名婦(明舞)屋敷」に流れ着いたと伝わる。

※2 「稲荷大明神として建てたとされる。現在の「青竹神社」

※3 神仏習合思想により奈良時代~江戸時代にかけて神社の境内かその近辺に建てられた神社を管理する       

   ための寺。神宮寺も同義。

※4 「白馬山狐禅寺」という天台宗の寺とされる。1439年に曹洞宗「鶏頭山光西寺」に改宗されて

いる(現在の場所とは異なる。下記地図参照(現在のファミリーマート一関峯下店辺り)。

 

「通説」としての狐禅寺の由来

 上記の漫画は旧狐禅寺村(明治22年に真滝村に編入)の「狐禅寺」の村名由来として地域に伝わる話を簡潔にまとめたものです。

 地域住民に話を聞くと、「白狐が流れ着いたので、祟りを恐れて祀った。地区内に『ビャッコヤチ』と呼ばれていた場所があるのはその関係では?」というような話も。

 ほかにも、これらの話に関係するスポットや藤原家ゆかりの場所が地区内には複数あるため、「狐禅寺」の由来は「地元学」等の題材として様々取り上げられてきました。

 ところが、事実関係を調べ始めると、様々な謎や疑問が浮上。そのため、文献調査や関係各所へのヒアリング、専門家のご厚意で古文書の翻刻まで決行!結論までは出なかったものの、興味深い歴史背景が様々見えてきました。

 もちろん「歴史ロマン」として、突き詰めるべきではない謎もあります。これまでの通説を否定することが目的ではなく、この通説が生まれた背景に迫る「新たな歴史ロマン」として、この通説の「裏話」をお届けします!

 

 

「狐禅寺の伝説」物語

 

「狐禅寺」という「地名」が確認できる最も古い文献資料が元禄8年(1695年)の『旧記留(下記参照)。いつから「狐禅寺」が地名になったのかは残念ながら分かりませんでした(「狐禅寺」になるまでは「吾勝郷吾妻ノ荘」)。また、今回の調査でご協力いただいた関係者のみなさま、参考文献に関しては、スペースの関係で誌面では割愛させていただき、当センターホームページに掲載します(資料の一部も公開)。

衝撃の事実

 

「白馬山狐禅寺」は一代で廃寺になっていた!!

 

「稲荷大明神」の別当寺として秀衡公が建てたとされる「白馬山狐禅寺」。実は秀衡公の死後は僧侶が立てられず、廃寺同然の状態になっていたことが判明。

 

 わずか一代限りの寺だったこともあり「白馬山狐禅寺」という寺があったことを明確に証明できる史料はないというのが実情。

 さらに、同じ天台宗の住職に話を伺うと「『禅』は曹洞宗が極めるものであり、天台宗は『止観』を極める。天台宗で『禅』という字を用いることには少し違和感を感じる」という興味深い話も!

※「禅」をしないというわけではない

 

 

 「怪しさ」すら漂うこの寺が地名にまで発展することが本当にあるのでしょうか!?

「鶏頭山光西寺」

 

 

 

廃寺状態の「狐禅寺」に曹洞宗「白馬山願成寺」二世来用和尚が隠居し、その後、曹洞宗の「鶏頭山光西寺(左真)」に改宗された。

 

 

 

 

素人考察①

 

 秀衡公の時代は約30年間。「白馬山狐禅寺」が別当寺としての役目を果たせていたのが同様の期間だと考えれば、短いながらも地域に定着していても不思議ではなく、僧侶は不在になったとしても、別当が細々と守っていた可能性も。

※「白馬山狐禅寺」が廃寺同然の姿になった背景には、奥州藤原氏の滅亡による当地域における天台宗の衰退が考えられる。

 

 曹洞宗の「鶏頭山光西寺」に改宗されるまでに約250年ありますが、改宗されるからには何かしらの寺としての要素が残っていたと推測。

 

 ちなみに、鎌倉時代になると、重税から逃れるため、貴族や寺院等の有力者へ土地を寄進する動きが。寺社は領土を保有するだけでなく、現在の戸籍のように檀家帳を管理するなど、今よりも権勢が強かったのだとか。

 

 現在の本寺地区には中尊寺荘園がありましたが、この地区も寺名(骨寺)が地名(骨寺村→本寺村)に発展しています。

 

 「狐禅寺」も荘園的に当該地区を管理していたのかも……?

 

 衝撃の事実

 

本来稲荷神社は、化け狐とは無関係!??

  

 伝説ではあたかも人々を困らせていた化狐をお祀りしたように聞こえますし、現在、狐禅寺地区の中心地に「稲荷神社」があるため、「化狐を稲荷神社としてお祀りした」と誤解している人も多いと思われますが、要注意ポイントが!

 

 まず、現在狐禅寺地区にある「稲荷神社」はこの伝説とは無関係(後述)。そして「稲荷神」は「ウカノミタマノオオカミ」であり、その「お使い」が「きつね」ですが、動物の狐ではなく、「びゃっこ」とも呼ばれる白い(透明)きつね。つまり野生の狐等をお祀りするようなものではなく、稲荷神社の総本山である「伏見稲荷大社」では「『稲荷大神』は決して『狐霊』ではない」としているのです!

「青竹神社」と改めた現在の旧稲荷大明神

 

 

 

 

明治5年の神仏分離令により「青竹神社」と改めた現在の旧稲荷大明神(左写真)。遊水地事業により当時の場所からは移転している。

 

 

 

素人考察②

 

 「伏見稲荷大社」によると稲荷神社の勧請として最も古いとされるものに宮城県の竹駒神社(842年)岩手県の志和稲荷神社(1057年)をあげています。

 

 「稲荷神」はそもそも秦氏族(京都)の氏神でしたが、都が平安京に遷ったことで秦氏が政治的な力を持つようになり、稲荷神も広く信仰されるように。さらに真言密教における「荼枳尼天(だきにてん)※」に稲荷神を習合させたため、真言密教の普及とともに稲荷神も全国に広まりました。

※「荼枳尼天」が人の心臓を食らう夜叉神のため、平安後期からその本体が狐の霊であるとされるようになった。狐の「祟り神」としての側面はそういうところから来ている?

 

 こうした時代背景から、秀衡公の時代以前に当該地区に稲荷神信仰があった可能性もあるのです。

 古代には狐の棲家の穴(狐塚)を祭場としていたという推測もあり、自然発生的に稲荷神のような信仰ができていた可能性も……?

 

 

※どちらにせよ、伏見稲荷大社から正式に勧請した稲荷神ではなさそうです。

 

 

 

 

衝撃の事実

 

この通説のもとは一通の手紙だった

 

 調査の中で出会った一つの古文書。元禄8年(1695年)に当時の村肝入ほか村民11人による連名で「稲荷大明神の云い伝え」を大肝入に届け出た際の手紙を記録したものでした。

 

 なんとこの時、稲荷大明神は「旧跡」とされており、「その云い伝えを知っている者が居たら届けでよ」という趣旨の仰せがあったのだとか!

 

 それを受けて差し出された手紙に書かれていた内容がまさに現在の通説。つまり、この手紙が現在の通説の発端となっているのです!!

 

 さらにこの中には「狐禅寺はいつ村名になったかなどを知っている人は村中にいない」という趣旨の記述も!

『磐井郡西磐井狐禅寺村大名婦稲荷大明神記録書上並御宮御建替旧記留』

    

 

 

 

 

 

 (左写真) 一関市博物館所蔵『磐井郡西磐井狐禅寺村大名婦稲荷大明神記録書上並御宮御建替旧記留』

※文政4年(1821年)に当時の稲荷大明神の宮守・佐藤孫右衛門が当社に関する話を記録したもの。

 

 

 

 

 

素人考察③

 

 秀衡公が建てたとされる「稲荷大明神」は、1695年時点では「古社」とされてしまうような姿に。

※同お宮のある大名婦(明舞)屋敷(=佐藤家)が茅葺屋根の粗末なお宮で管理していた。

※別当寺としての「狐禅寺」が廃寺となったことと、光西寺では別当の仕事はしなかった(宗派の関係とされ、代わりに「来善院」が別当の仕事をした)ことで寂れていたと推測。

 

 しかし、上述の手紙の翌年、一関藩所が改築に入り、その後、村社のような位置づけにまで格上げされます(明治初期に村社は村の中心にあるべきという考えから、別の「稲荷神社」が現在の狐禅寺市民センター横に建てられ、村社の座はそちらに……)。

※「稲荷大明神」は神仏分離令により明治5年に「青竹神社」となった。

 

 ところが、明治31年に火災を起こし、神社も宮守宅も全焼……。村社「稲荷神社」ができていたこともあり、社殿が復旧したのは火災から27年後だったとか。

 

 

 光西寺も火災で歴史書等が消失しており、上記『旧記留』以前の史実は誰にも分かりません……。

 

■□誌面未掲載情報□■

 ここからは参考文献、調査協力者含め、誌面ではスペースの関係でご紹介できなかった内容です。

 

まずは誌面でやむを得ず割愛させていただいた参考文献です。

 

<参考文献>  ※順不同

 

・真滝村誌復刻刊行委員会(2003)『復刻 真瀧村誌』

・一関市教育委員会(1985)『一関市文化財調査報告書特集号 北上川遊水地内の水没社寺・古碑』

・一関市(1977)『一関市史』

・株式会社テレビ岩手(2005)『いわてのお寺さん[一関・平泉とその周辺]』

・金野清治郎(1988)『真滝五話』

・千葉信夫(2013)『磐井地方の歴史と風土』

・岩手県南史談会(2002)『平成十三年度 研究紀要 第三十一集』

・田中重弥(1976)『陸中の伝説』

・歴史春秋出版株式会社(2014)『奥州藤原氏の謎』

・一関市立中里公民館(2011)『おらほの昔がたり』

・一関ユネスコ協会(1986)『むがし あったどしゃ-一関地方の昔話-』

・地域おこし歴史懇話会(2014)『狐禅寺村 風土記卸用書出』

・国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所『一関遊水地事業 北上川』

・伏見稲荷大社「よくあるご質問」 http://inari.jp/about/faq/ (参照2020-4-10)

・伏見稲荷大社「稲荷勧請」http://inari.jp/about/num04/ (参照2020-4-10)

 ・宗教法人太鼓谷稲成神社「命婦社」http://taikodani.jp/publics/index/35/ (参照2020-4-10)

 

 なお、上記のうち、赤字にした文献に『旧記留』の全文が公開されています。興味のある方はぜひご覧ください(^^)/

 

 続いて、今回の調査には狐禅寺住民のみなさまはじめ、多くの方々にご協力をいただきました。特にヒアリング等にご協力いただいた方を下記にご紹介いたします。

 

<協力者> ※敬称略、順不同

 

・狐禅寺市民センター

・光西寺住職 本田秀行

・青竹神社 管理者 佐藤民子

・平泉文化遺産センター 千葉信胤

・観福寺住職

・一関市博物館 主幹 相馬美貴子

 

 

誌面に上記参考文献・協力者を掲載できなかったことをこの場を借りてお詫びするとともに、改めてまして調査にご協力いただいたみなさまに感謝申し上げます。

 

 そして、調査内容をまとめるにあたって作成した史実年表も公開します。こちらはあくまでも当センタースタッフが情報整理のために作成したもので、内容に関する責任は負いかねますので、ご理解いただいた上でご覧ください。

狐禅寺_史実メモ_HP用.pdf
PDFファイル 602.5 KB

↓実際の誌面ではこのように掲載されております

idea5月号の実際の紙面

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