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(idea2024年4月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

地名の謎ファイル№10 「関」と「堰」

 当誌2023年11・12月号で取り上げた「二関村」。その地名の由来には「関所」や「関塞」にちなむ説と「堰」にちなむ説とがあり、実際に地名が「堰」で表記されていた時代もありました。そして実は「堰」にちなむ説の方が有力という話が……。ここで言う「堰」とは何なのか?その調査結果とともに、調査過程で整理した当地域における「用水堰」の歴史や仕組み、特徴などから、先人たちの暮らしや知恵を学びます。     

     (記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果)

 

■「堰」は何を指す?

 「堰」という漢字は「土等を積んで水の流れをせきとめるもの」を意味します。現代でいう「堰」はそんな簡素なものではなく、「頭首工」「取水堰」など、農業用水等の水を河川から得るための、河川の水位を制御する施設や、そこから続く用水路を指すこともあります。

 

 そんな「堰」が地名の由来になるというのはどういうことか?通説として、①用水堰開削に由来する、②北上川の氾濫をせき止めるための堰に由来する、という2つが見られます。①については、「一関地方を広く灌漑している照井堰にちなみ」と記載されているものも。②については、一関・二関・三関村が面するのは磐井川であり、北上川に合流する前に水位を制御するための何かしらの策を打った場所と解釈すれば、可能性はあります。

 

 実は当初、②の説の存在を知らず、①の検証をするために、照井堰を含めた当地域における用水堰の歴史や仕組みばかりを調査していた我々。用水堰についての情報は得たものの、それらの情報と、一関・二関・三関の立地や、地名が発生する時代背景とがなかなかリンクせず、行き詰っていました。

 

 そんな中に知ったのが②の説。磐井川の上流側から順に一関村・二関村・三関村と立地しており、かつ、一関村には江戸時代に入っても人の住まない沼地が存在していました。

千厩町磐清水字姥田の位置

 そうした場所が堰で水流を変えた(逃がした)場所であった可能性もあり、それらの「堰」が「一ノ堰」「二ノ堰」「三ノ堰」と呼称され、地名に発展していったというのは、あり得る気もします。

 

 とは言え、①について、様々調査を行いましたので、当地域における「用水堰」と我々の暮らしとの関係性について、ご紹介します。

 

■「用水堰」の歴史

 当地域において用水堰と言えば「照井堰」をあげる人が多いでしょう。照井堰は奥州藤原時代・藤原秀衡の家臣である照井太郎高春による開削開始に始まり、その後長い年月を経て灌漑させています。

 

 照井堰が当地域における最も古い堰のように思われがちですが、「水田のための堰」は、日本全土で見れば、水田に取水するための小渓流(≒堰の原形)弥生時代には見られると言い、古墳時代にはすでに堰的なものが構築され始めている(木杭を合掌式に組み合わせて隙間に粘土や礫を詰めることで河川の水位を堰上げる構造の堰等)ようです。

 

 律令制国家体制が整備され、公地公民の制、班田収授法により、農民は与えられた土地で稲作を行い、国家に納めなければならなくなり、用水確保の必要性は高まっていきます。7世紀頃には、仏教とともに、溜池築造の技術が大陸から伝わり、耕地開発のための河川への堤防築堤も朝廷から発布されます。

 

 743年、墾田永年私財法が定められると、寺社・貴族・地方豪族などが積極的に開墾を進め(=私有地の拡大)、荘園に発展していきます。その20年前に発令した「三世一身法」は、口分田とは別に、新しい用水路を作って土地を開墾した者は、三世代先まで土地の所有が認められるという法でした。

 

 つまり、用水路の開削は、その規模の大小はあれ、小河川や溜池による用水確保とともに、奈良時代には推奨されているのです。

 

 では、当地域においてはどうだったのでしょうか。詳しく見ていきます。

 

「堰」の当地域事情を深堀してみた

 当地域にはどれくらいの「堰」があるのか、その実態を把握しようとした我々がぶつかった壁が「堰」の定義。一般的には「農業用水等の水を取水するために、河川を横断して水位を制御する施設」とされ、取水施設そのものを指すようですが、当地域においては、そこから水田までをつなぐ水路を「堰」と呼ぶことも。そうした事情も含め、整理してみました。

 

当地域における中世の水田事情

 奥州藤原氏が平泉文化を形成した頃には、当地域でも水田開発が進んでいるものと思われますが、どの時代に、どこに、どれくらいの水田があったのかというのは、わかりません。鎌倉時代に描かれたとされる骨寺村(現一関市本寺)の絵図には、湧水・沢を利用する原初的な田、土木技術によって取水する田等が記載されており、その頃には自然の水源を利用しての取水だけでなく、土木技術を用いた水田がある程度あったのではないかと推測します。

 

 とは言え、当地域の江戸時代の絵図を見ていくと、水田の多くは、小規模河川や沢と思われるものの付近に存在し、現在のように平地に広がる水田というものは見受けられませんでした。北上盆地(平野)は「溜池が多く築造され、著しい溜池地帯を形成している」ことが注目すべき点だとしている文献もあり、実際、上記沢などの付近には溜池らしき描画も。当地域においては、小規模河川や沢からの取水に溜池を組み合わせて、農業用水の安定供給を担っていたようです。

金山棚田(一関市舞川)
▲金山棚田(一関市舞川)
山吹棚田(大東町大原)
▲山吹棚田(大東町大原)
百聞堤/有切棚田(室根町津谷川)
▲百聞堤/有切棚田(室根町津谷川)

※写真のような山を切り開いた大規模な棚田については、江戸時代以降の開発が多い。

※水田開発が難しい土地では畑としての活用が多く、稗や粟、豆などの栽培をしていた。

 

 

疑問①

当地域で、小規模河川や沢を利用した水田ではなく、「堰」的な技術が用いられるようになったのはいつ頃からなの?

 

 古いとされる「照井堰」は、1174年に計画され、1185年開削、灌漑したのが1208年とありますが、伝説的な部分も大きいとされます。現在の「大江堰」の一部である厳美町猪岡地内の穴堰は1195年に開かれ、その後徐々に開削が進められ、1493年に中里地内まで灌漑します。最終的に現在のような照井堰の水路体系ができたのは1660年頃とのこと。

 

 東山町の「松川堰(猊鼻渓の船下り場付近)」の前身となる堰は、1770年に灌漑するなど、現在の堰の基礎となるものは、江戸時代にはできていたのではないでしょうか。

 

疑問②

当地域には、どれくらいの数の「堰(≒農業用水路)」があるの?

 

 「堰」の定義にもよりますが、「水田用の用水路」を「堰」とした場合、集落等で組織する「水利組合」などが所管するものも多いため、土地改良区や土木センター等でも把握していません。

 

 なお「〇〇堰」という水路は、昭和以降は「用水路」、現在は「幹線用水路(パイプライン)」という呼び方で作られています。

 

疑問③

それらの「堰」は誰がどうやって管理しているの?

 

 例えば、「照井堰」の場合、行政管理から始まり、「照井堰普通水利組合」の管理に代わり、土地改良法の施行により「照井土地改良区」の所管となりました。維持管理にあたっては、当該地域で水稲栽培を行う農家からの会費で運営費や修繕費等を賄っています。

 

 集落単位で水利組合を組織していた地域でも、土地改良法によって土地改良区が設置され、そうした組織の所管となった堰もある一方、任意団体のまま維持管理し続けている堰もあります。この違いには「水利権」が関係します。

 

 「水利権」は、法律上の権利ではなく、水を利用する権利として、従来より定着した呼び方であり、水利権について規定している「河川法」の中にはこの言葉は出てきません。「河川法」では、「河川の流水は、私権の目的となることができない」とした上で、「河川の流水を占用しようとする者は、国土交通省令で定めるところにより、河川管理者の許可を受けなければならない」と定めています。この時、許可を要するのは、取水だけでなく、河川水の貯留も含まれます。

 

  当地域を流れる磐井川や北上川にも「河川法」が適用されますが、河川法上の河川でない普通河川や溜池からの取水、地下水(取水による河川への影響が明らかに認められるものは除く)の取水は水利権の対象となっていないことから、小規模河川や沢、溜池から取水した堰(水路)については、任意の水利組合組織で賄っていけるのです。逆に、河川法上の許可を必要とする川から取水する堰の場合は、組合制度(≒土地改良区)での運用が必要です。

 

疑問④

東磐井地域に土地改良区が少ないのはなぜ?

 

  大東地域は溜池利用が多く、室根地域は沢からの取水が多いなど、地形的要因が関係します。西磐井地域は平野部が比較的多いため、河川からの取水と大規模な用水路の開削が水田開発には必要でした。

■当地域における土地改良区

<西磐井エリア>

照井土地改良区/真打堰土地改良区/市野々土地改良区/須川土地改良区/富沢土地改良区

金流川沿岸涌津土地改良区/夏川沿岸土地改良区/内之目土地改良区/花泉土地改良区

<東磐井エリア>

一関東部土地改良区/藤沢土地改良区

 

次号では「照井堰」をピックアップします!

<参考文献・論文(Webサイト)> ※順不同

照井土地改良区小説(2012)『幾星霜』

編/照井土地改良区小説(2006)『鐵心郷潤』

水土里ネットてるい(2017)『照井堰用水の概要』

発/一関市(1978)『一関市史 第1巻 通説』/発/一関市(1978)『一関市史 第2巻 各説Ⅰ』

発/真滝村誌復刻刊行委員会(2003)『復刻 真瀧村誌』

編/黄海村編纂委員会(1960)『黄海村史 前』

著/阿部和夫(1978)『磐井川下流平野における耕地整理の展開』

著/阿部和夫(1982)『明治末期における岩手県の農業政策と耕地整理事業』

興田史談会(2016)『ふるさとの歴史 興田史談』

 

水土里ネットてるい.「概要」.terui1170.com(2024/3/14)

文化遺産オンライン.「世界遺産と無形文化遺産」.nii.ac.jp(2024/3/14)

国土交通省東北地方整備局.「用語解説 堰」.mlit.go.jp(2024/3/14)

東北農政局.「平安時代~鎌倉時代」.maff.go.jp(2024/3/14)

 

その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました! 

↓実際の誌面ではこのように掲載されております。

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