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(idea2021年8月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

くらし調査 ファイル№14「舟のある暮らし」

 藤沢町黄海・小日形集落を通過した際に目に留まった「軒下に吊られている木舟」。「どうやってあんな場所に!?」という単純な疑問とともに、同様の家が数軒あり、中には野ざらしで放置された木舟もあったことから「木舟が必需品だった過去がある」と推測。いつ、何の目的で、どこからどこに舟を使用していたのか、そしてその需要がなくなったのはいつ頃なのか……。「舟のある暮らし」に想いを馳せてみました。

※記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果です。

「舟運」と「備え舟」

  坂上田村麻呂が舟運を目的とした低水工事を行うなど、平安時代以前から物資運輸の舟運が行われていた北上川。特に江戸時代以降は、年貢米の供出や、江戸や京都との物資輸送に舟運(各藩による「ひらた船」等)が大活躍。川港となった地域は宿場町として栄えました。

 

 年貢米がなくなった明治前半には、舟運が民営化。蒸気船や発動機船の定期航路が運行され、陸路の整備が進む明治30年頃までは北上川の舟運が生活を支える大動脈でした。

 

 他方で、北上川では江戸時代の約270年間に213回、明治から昭和35年までの93年間には116回と、水害も多数発生し、水害常襲地帯となっていた地域も多くありました。戦国時代以前は、取水が行いやすく、洪水に対しても安全な支川扇状地に集落が形成されていましたが、大名による新田開発に伴い、北上川本川の川沿いに生活の場が移っていったことも影響しています。

 

※「国土交通省一関防災センター北上川学習交流館」ホームページより

 

 そんな水害常襲地帯に暮らす家々が所有していたのが「備え舟」。木造の舟で、各家の軒下などに吊るしてありました。

 

 また、木造の和舟は、陸路の交通手段が確立されるまでは、対岸への移動手段としても活躍。「渡船場」と呼ばれる渡し舟の発着所が川岸各所に開設され、民間の渡し舟のほか、集落等が共同で渡し舟の運行を行うなど、地域住民の足を支えていました。

 

 陸路の整備や車の普及によって「移動手段」としての舟は必要なくなったものの、「備え舟」が今も軒下に吊られている光景を見ることができる当地域。「暮らし」を支えた「備え舟」は、どんなタイミングで、どのように用いられていたのか、当時の様子を各地でヒアリングしてみると、予想外の用途の連続でした……!

 

 ※「国土交通省一関防災センター北上川学習交流館」ホームページより

 

北上川上流狭嗌地区

一関遊水地下流から宮城県境までの26㎞区間

両岸を急峻な山々に囲まれた川幅の狭い地形でありながら、一関遊水地から河口までの高低差が10mしかなく、流れが急に緩やかになってしまうために、水を流しきれず、洪水常襲地帯となっている。一関遊水地小堤の影響で浸水しやすくなってしまったため、現在も抜本的な治水対策が進められている。

北上川上流狭嗌地区
佐々木栄一さん(藤沢町黄海字日形)宅の「備え舟」
佐々木栄一さん(藤沢町黄海字日形)宅の「備え舟」

今回、中心的にヒアリングを行ったのが、現在の一関遊水地やその周辺、左記の北上川上流狭隘地区に住んでいる/過去に住んでいたという方々。

 

 このエリアの中には、治水事業の一環で移転した家や、治水事業以前に移転していた家(水害被害を受けて転居)が多くあります。 

 

 こうした地域に住んでいた家では「備え舟」を持っていたり、移動手段として「舟」を使った経験を持っているようです。

 

 

 

〈当地域における北上川に関連した主なできごと〉

~安土桃山       時代       古代(少なくとも平安時代以前)からの物資の手段として船が利用されていた。        
江戸 

元和

2年 

日形村(現花泉町内)で地頭・木村勘助が築堤開始。対岸の黄海村と堤防整備を巡って争いに発展することも
明治 初期 舟運の民営化が進む(藩の「ひらた舟」が払い下げられたため)・舟運の需要も増し、当地域にあった8か所の渡舟場(私施設含まず)の周辺は川港として発展した。
18年 盛岡に「北上川回漕会社(民間の舟運業者)」設立。翌年から狐禅寺‐石巻間の定期運輸舟就航。下り2日、上り4日かけて運輸(対象13年に定期運輸廃止)
24年 「日本鉄道」が「東北本線」を開業し、盛岡‐狐禅寺間の北上川運輸の衰退がはじまる。
30年頃  今泉街道はじめ舞川との整備により、砂鉄側の水運も衰退(馬車の需要増)
37年 狐禅寺字舞台と舞川との間(当時の真滝村と舞川村)に「千歳橋(千歳舟橋)」が架けられる(昭和23年流失) 
 大正  2年 狐禅寺‐石巻、狐禅寺‐薄衣間で発動汽船の運輸開始。 
14年 国有鉄道「大船渡線」開業。狐禅寺‐石巻航路も衰退はじまる(狐禅寺‐薄衣航路は需要あり)。
 昭和    5年  日形・四日市渡(日形村‐黄海村)に「初代北上川橋」が架かる※四日市渡場廃止?
13年 川崎薄衣に「初代北上大橋」がかかる。これにより、中神渡船場(日形)は廃止に。 
22年 カスリン台風(9月12日~16日)」による豪雨で、河川が氾濫し甚大な被害発生。 
23年 アイオン台風(9月16日)」により磐井川の堤防が決壊するなど甚大な被害発生。 
26年

「千歳船橋」こと千歳橋が潜水式木造板橋になる(昭和33年にコンクリート製に嵩上げ改築)通称「モグリ橋」 

38年 中里と舞川に架かる「柵の瀬橋」完成(木造橋はあったが、水害で流出し、渡し舟で移動していた)。 
40年頃 

黄海小学校(藤沢)でスクールバスの運行が開始し、通学時の渡し舟終了。

自家用車も普及し、船の需要減少

47年 「一関遊水地事業」着手※実質の着工は昭和57年頃~
53年 「千歳橋(モグリ橋)」が下流に架け替えられる(「新千歳橋」)
63年 北上川、黄海川の合流地点に堤防が完成(昭和42年着工)。
平成 14年 台風6号により戦後3番目の大規模な洪水が発生
15年 現在の「北上大橋」が旧橋の約130m下流に完成。架け換えと前後し、「砂鉄川緊急治水対策事業」などが進められた(平成11年~17年)
18年

一関遊水地の小堤整備により浸水しやすくなる下流狭隘地区のおいて、「土地利用一体型水防災事業」開始。

一関遊水地下流から岩手・宮城県境までの約26㎞区間で移転や宅地のかさ上げを行うもの(対象家屋約115戸)。

19年 停滞した秋雨前線と台風11号から変わった温帯低気圧の影響により、地域によってはカスリン台風に次ぐ水位を観測するも、各種治水対策(5大ダム、堤防整備)により、従来より被害が減少した。

昭和5年以前の渡し舟
▲昭和5年以前の中里字照井(前堀)近くの磐井川での渡し舟(阿部克郎『平成前堀風土記』より)

平成14年水害時の藤沢黄海地区の浸水状況

平成14年水害時の藤沢黄海地区の浸水状況        

(岩手河川国土事務局提供)


 

 

水害時、備え舟がない時にはドラム缶等で対応

(昭和56年水害時/鈴木清孝さん(中里字照井)提供)

水害時備え舟がない時はドラム缶等で対応

 

 

 川沿い集落の暮らしの使い方

 陸路が整備されるまでは、川沿いに暮らす人々にとって「暮らしの必需品」だった舟。特に水害発生時の「備え舟」としての舟は、逃げるための道具かと思いきや、「生活を続けるため」の道具として、予想外の機能を果たしていたことが判明!「川と共に暮らしていた」人々の生活の知恵をご紹介します。

 驚きの用途①     

          馬避難させるため

農耕馬を非難させた2つの実例をまとめたものが以下です。

 

 

①舟の間に竹を渡しその間で馬を泳がせる

 

 

 

 

水害時馬を非難させている図

水位が上がる前に馬に乗って安全な親戚等の家に馬を預け、水位が上がった帰路には舟を借りる。家に戻ったら、自分の家の舟と借りた舟に一人ずつ乗り、船を返しに行く。自分の家の舟に2人で乗り帰宅。※水が引いてしまっては舟を返しに行けないため。

②馬を非難させて、親戚等から舟を借りている図

 

驚きの用途②    

        家からごみと泥を洗い流すため

 

 家に入った大量のゴミや泥。それを水の引き方に合わせて洗い流すのだとか!水が引き始めると、家の中に舟を入れ、水をかけて洗い流します。水の引き初めが深夜であっても、翌朝を待っていては高い所についた泥が洗い流せなくなるため、暗闇の中、作業します……!

 驚きの用途③

トイレを借りに行くため

 津波と異なり、少しずつ水位が上がっていくため、家が土台ごと流されない限りは、別の場所へ避難するのではなく、家の2階で生活を続けたのとか。そこで問題となるのがトイレ。用を足したい時は、船で水の上がってない家にトイレを借りに行くのだそうです!

 

 

 

驚きの用途④

野菜を取りに行くため

 上述の通り、2階で生活を続けるため、食糧を調達する必要が。水位が上がりそうだと分かると、お米を大量に焚き、2階に上げておきます。畑の野菜や、飲料水等の配給品は、随時舟で取りに行きます


驚きの用途⑤

をワイヤで固定するため

当時の家屋は束石に乗っているだけの状態なので、水位によっては流されたり、転倒することが多々。そのため、流されかけると、ワイヤで周辺の樹木に固定したり、その家に残っていた人を救助に行ったりしたのだとか。

驚きの用途⑥

学校に子ども迎えに行くため

 

 学校から帰ることができなくなる恐れのある集落の子どもたちは、水位が上がってくると、集落の大人が舟を出し学校近くの河岸まで迎えが来たのだとか。「○○集落の生徒は○○橋に迎えが来ていますので直ちに下校してください」等の校内放送がかかったという思い出があるという人も。


■□誌面未掲載情報□■

誌面では割愛させていただいた、今回の調査に係る情報です。

なお、市内各地で様々な方にヒアリング協力もいただきました!

この場を借りてありがとうございました。

  

<書籍・論文> ※順不同

 藤沢町・藤沢町史編纂委員会(編)(1979)『藤沢町史 本編上』

藤沢町・藤沢町史編纂委員会(編)(1984)『藤沢町史 本編中』

藤沢町(2011)『藤沢町史 現代編』

三陸河北新報社(2000)『北上川物語』

NPO法人 一関文化会議所(2019)『誘い 磐井の歴史と文化』

岩手の土木史研究会/建設省東北地方建設局岩手工事事務所(1995)『北上川の昔と今』

岩手県土木部小史編集委員会(1979)『岩手県土木部小史』

東北地方建設局岩手工事事務所(1990)北上川上流写真集「本川編」

東山町史編纂委員会(編)(1978)「東山町史」

 

国土交通省 東北地方整備局 岩手河川国道事務所(2008)『平成19年9月17日洪水 北上川上流水害写真集』

阿部克郎(2004)『平成前堀風土記』

一関市立日形公民館(2014)『ディスカバリーふるさと日形 北上川と共業』

 

<協力> ※順不同

佐々木 栄一さん(藤沢町黄海字小日形)

伊藤 俊男さん(藤沢町黄海字七日町)

鈴木 清孝さん(一関市中里照井)

金田 豊子さん(一関市弥栄)

サイトウ アヤオさん(一関市舞川)

マイクサ コウキさん(一関市舞川)

瀧澤 政司さん(川崎町薄衣)

北上川学習交流館「あいぽーと」

 

その他たくさんのみなさま

 

 

調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました! 

↓実際の誌面ではこのように掲載されております

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