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(idea2023年月9月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

いにしえの道 ファイル№1 「花泉~気仙沼①」

 室根町矢越(釘子)地区在住の方(90代)とお話しをしていた時のこと。「花泉の人たちが‘箕’を気仙沼に売りに行く時に、この辺りで1泊していった。帰りには塩と‘ベト(≒魚のアラ)’を持って帰って来た(のを見ていた)」というエピソードが飛び出しました。いわゆる「気仙沼街道」とはまた別のルートだったことから、「一般的な街道ではない道」に興味をもった我々。現地調査も交え、「いにしえの道」に想いを馳せてみました(新シリーズ!)     

(記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果)

 

■小松峠経由の気仙沼への道

  村史・町史などを見ていくと、当時の「陸上交通」として、各種街道※1が紹介されています。当地域においては、古くは平泉に向かう道が重要であり、藩政時代には一関村・二関村に向かう道や、水運や市・宿場に通じる道が幹線道路のようになっていったようです。

 

※1 江戸時代の「街道」は、厳密には幕府直轄の「五街道」のみを指し、それ以外は沿道の領主の管理にゆだねられ「街道」という名称は用いられなかった。

 

 特に「気仙沼街道※2」と呼ばれる花泉町金沢(金沢宿)を起点とし、北上川を渡り、薄衣・千厩・下折壁の各宿駅を通過し、浜横沢村から本吉郡気仙沼宿へ通じる道筋は、現在の国道284号線に通じる道も多く、歴史ある道として認知されています。

 

※2 ※1に関連し、当時は「気仙沼街道」とは呼ばれておらず、「○○への道」と、それぞれの地点から次の目的地までの名称で呼んでいた。金沢宿の場合は「薄衣への道」だった。

 

 花泉から気仙沼に向かう人たちは、この「気仙沼街道」を通っていたものと認識していましたが、室根町釘子地区在住の方から次のようなエピソードを聞いたのです。

 

 昭和20年前後の頃、花泉の人たちが「」などを気仙沼に売りに行くために、「小松峠」を通って行った。小松峠を抜けたら、「宿(室根町矢越の地名)」の辺りで一泊した。その際、賭け事をしていたような話もある。気仙沼からの帰り道には、「にがりがとれる状態の塩」と、「ベド(魚の頭や臓物)」を馬に積んで帰って来た。

 

 

■約50㎞の旅の目的とは

 「小松峠」は、千厩町小梨と室根町矢越との境にある峠の一つですが、現在は峠付近の田畑所有者等が通行する程度です。なぜその峠を越えていたのか(①)含め、3つの疑問を調査することにしました!

 

②起点・終点・中継地点

 「花泉」と言っても、エリアは広く、仮に金沢の人であれば、「気仙沼街道」を通った可能性の方が高いので、起点となる地区と、同様に「気仙沼」のどこを目指したのかを明らかにしたい。

 

③目的は何だったのか

 花泉から気仙沼までの距離は、場所にもよるが約40~50㎞(JR清水原駅からJR気仙沼駅までの距離(陸路)が約45㎞)。この距離を移動してまで必要な目的とは何だったのか。「箕」を気仙沼までわざわざ売りに行く必要があったのか。

 

 なお、「室根の人はあまり使わない」「花泉の人が多かった」という補足情報もあり、地域住民の往来に使う道というよりも、地域外の、何か特定の目的がある人が使用する道だったと推測。

 

 文献調査や各種ヒアリング調査とともに、実際に「この道ではないか」という道を通行してみることで、当時の生活の様子が見えてきました! 

宿と小松峠

 

  花泉→気仙沼

」と「」の関係性と道中追ってみた

 

  花泉から気仙沼に「箕」を持って行き、帰りに「にがりがとれる状態の塩」と「ベド(魚の頭や臓物)」を持って帰って来ていた人たちがおり、そのルートがいわゆる「気仙沼街道」とは異なっていたという今回のエピソード。

 

 果たしてその目的や背景、ルートの全容とはいかなるものなのか、2号に渡ってご紹介します!

疑問① なぜ「小松峠」を越えたのか

現在の小松峠の様子。車の通行も可能(路面状況等によっては不可)▶


「境界」であり「近道」でもある「峠」

 

 「小松峠」は地図や文献等にも千厩町小梨と室根村矢越とを結ぶ峠として記載されており、その標高は262m。そもそも「峠」とは、山の尾根の峰と峰との間の低い部分を指し、小松峠は「大登山」と「観音山」の間にあります。この観音山の南には「砥石山」「黄金山」と続き、これらの尾根が小梨と室根の境界になっています。

 

 峠は尾根の低い部分であり、小梨から室根の境界を越える際には、峠を越えることが実質的な「近道」なのです。なお、小梨から津谷川方面(至本吉町)に抜ける際の峠には「新地峠」があり、『津谷川の民俗資料』には「この道路は千厩が郡の中心都市である関係古くより往来せられた」と記載されています。「小松峠」も同様に、かつては小梨と釘子の往来に頻繁に使われていた可能性があります。

 

 ちなみに、現在は千厩町小梨と室根町矢越との往来には、「一関市小梨市民センター」や「畑ノ沢鉱泉たまご湯」等の前を通過する道路を利用する人が多いですが、小松峠よりも起伏があります。

疑問② 起点・終点・中継地点

 

 「花泉の人たち」「箕」というキーワードから、「箕」を作っていた地域を調べていくと、『花泉町史』の中に、「家内工業」として「竹細工=花泉・奈良坂・金沢」という記載があり、「特産品」の項目の中でも「これらの家内工業は、生産が増えるにしたがって、商品として農閑期には行商に、毎月ひらかれる金沢・涌津・清水・日形の市日に売りさばくなど結構収入の助けとなった」という記載が。

 

 ここでいう「花泉」は旧金森村・清水村を指すと推測され、金沢村寄りであることから、「箕」を作っていたとしても、金沢宿を起点とするいわゆる「気仙沼街道」を抜ける可能性があることから、起点を「奈良坂(現在の小山沢・日向・西風・大又集落のエリア)」に設定してみることにしました。

 

 終点については、「塩」をキーワードに、製塩の歴史などを調べてみたところ、1910年の「塩業整備に関する法律」施行により生産性の低い塩田は廃止となっており、気仙沼でも同時期以降、明治時代のうちに基本的には終了していることが判明。しかし、太平洋戦争の勃発で塩の生産が激減、輸入も困難になったことから、塩は「割当配給制」になるとともに「自家用塩制度」が実施され、非常手段として自家用の塩の製造が認められたという歴史が(1942年)。そこで、当時の記録は見つけられなかったものの、今回は過去に塩田があり、室根からも比較的近い鹿折地区を終点に設定してみました。

 

  肝心の中継地点に関しては、文献等を参考に「奈良坂(花泉)→宿部落(老松)→日形の舟渡場→黄海(藤沢)→徳田(藤沢)→小梨(千厩)→釘子(室根)→笹塞峠→廿一(気仙沼)→手長山→鹿折地区」というルートで検証することに!このルートの詳細は、次号で詳しくご紹介します。

 

当地域で使用されていた「箕(当センター職員所蔵)」。明治35年当時の「物産」が記載されている『磐井郷土誌』には、小梨村に「箕」と記載があり、実際に「箕」を製造していた家も確認できました。 

疑問③ 目的は何だったのか

 

 疑問②で奈良坂(当時)を起点に設定したものの、わざわざ気仙沼まで行かなければいけないことに疑問が残ります。上述の『花泉町史』には、近隣で行われる毎月の市日で売りさばいていたとされており、農閑期の行商も、一関方面など、選択肢は他にあったはず……。

 

 そこで注目したのが「持って帰って来た」とされる「塩」と「ベド」です。時代背景を整理していくと、戦中戦後の食糧難の時期であり、食糧や生活必需品は配給制になっていた頃です。特に「塩」は、配給品だけでは足りていなかったようで、生きていくために、「闇取引」のようなものが横行していたとされる頃です。そこから推測するに、気仙沼まで行った理由としては、「現金収入」ではなく「塩」を入手することが目的だったのでは……。闇取引の取締りなどの対象とならないよう、肥料として利用できる「ベド」も同時に入手し、ごまかしていたのでは……⁉(あくまでも推測です)。

▲当地域で使用されていた 「かて切り」※一関市民俗資料館所蔵
▲当地域で使用されていた 「かて切り」※一関市民俗資料館所蔵

 なお、気仙沼市で民具なども収蔵している「リアス・アーク美術館」の学芸員さんにお話を伺ったところ、「気仙沼の中でも農村部の人たちが、浜の人たちと闇取引に近い物々交換をしていたようであり、花泉の人たちと物々交換をしていても不思議ではない(時代背景的に、相手が誰かは関係ない)。現に、一関方面からは、大東の人たちが『かて切り』という道具を売りに来ていた。気仙沼内でも竹細工は行われてはいたものの、良い道具であれば、交換に応じるのでは」との見解が。

 

 また、「にがりがとれる状態の塩」で入手することで、豆腐を作ることができるため、「塩」と

して入手するのではなく、あえて製塩されきっていない状態で持ち帰っていたのではないかと推測します。

 

次号では推測される全ルートを地図でご紹介します!

<参考文献・論文(Webサイト)> ※順不同

気仙沼編さん委員会(1990)『気仙沼市史Ⅲ 近世編』

気仙沼市総務部市史編さん室(1996)『気仙沼市史Ⅴ 産業編(上)』

気仙沼市史編さん委員会(1997)『気仙沼V 産業編(下)』

室根村史編纂委員会(2004)『室根村史 下巻』

発/東磐史学会長 千葉房夫 編/村上光徳(1979)『東磐史学 第4号』

発/東磐史学会長 千葉房夫 編/村上光徳(1979)『東磐史学 第12号』

那須光吉(2001)『岩手の峠路 地図から消えた旧道』

 

その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました! 

↓実際の誌面ではこのように掲載されております。

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