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末裔調査 ファイル№3 昆野八郎右衛門

 

 

誌面こぼれ話

 

誌面スペースの関係で割愛した内容を記録も兼ねてまとめました。

八郎右衛門神社からみた釘子
八郎右衛門神社からみた釘子地域

 

■昆野八郎右衛門神社

 室根町矢越字松原にある昆野八郎右衛門神社。八郎右衛門は処刑から160年以上経過後に「八郎明神」として祀られるようになり、次第にその「講中」ができ、その中で「明神としてだけでなく、神社として祀れないか」という機運になったとか。そこで、八郎右衛門の子孫・星甚三郎(朴木屋敷)が自身の所有地である代官の館跡に建てることを提案。明治17年、地主や講中の人たち(=村人)などにより、御宮が建てられ、長根屋敷跡にあった石宮も移しました。

 

 八郎右衛門が暮らした家(長根屋敷)や、八郎右衛門の首塚のある場所からは少し距離がありますが、小高い山の上で、境内からは釘子村が見渡せるため、八郎右衛門に釘子を見守っていて欲しいという住民の想いで、この場所に決めたのではないでしょうか。

 

 昭和50年頃、千葉幸右衛門先生の連載によって八郎右衛門を後世に伝えようという機運が再び高まると、旧室根村長の菅原惟一郎氏が中心となり、社殿とその周辺の土地を買い上げて境内や公園として整備した後、当時の室根村に寄贈。そのため、土地は市有地となっていますが、敷地の管理は地元の15区自治会(自治会としての環境整備のほか、神社周辺の松原部落の住民たちによる整備活動も。松原住民の親睦組織「羽衣会」が担っていた時期もあり)が行っています

 

※社殿の場所は明治期から変わっていませんが、そこに続く石段や接続道、その他公園部分は昭和50年代に整備したもの。

整備にあたっては、菅原惟一郎氏が「一心園」という講組織を立ち上げ、神社や敷地の管理を行っていくつもりだったと思われますが、志半ばで逝去。講組織も自然消滅した(活動があったかも不明)。

八郎右衛門神社への石段

 

 

 

 

◀小山喜久雄さんの幼少期は、集落の子どもたちが石段の清掃をしており、自然と昆野八郎右衛門という存在を認識していたとか(現在の石段とは別の階段)。

 

八郎右衛門神社一帯の写真
昆野八郎右衛門神社 記念碑

▲境内に続く石段横の法面には、つつじの植え込みを「はちろうえもん」という文字に刈り込んでいます。この刈り込みは地元住民が行ってきましたが、コロナ禍で令和3年度は整備が行えず、現在は文字がはっきりとは確認できず……。

 

 昆野八郎右衛門神社社殿

  かつて代官所があったとされる「朝日館」跡に、明治17年(20年)に建立された昆野八郎右衛門神社。当初は茅葺屋根の社殿でしたが、大きさは現在の社殿同様「4間に2間」でした。

※一度火災に遭い、建て替えている(年代不明)。

 

 小山喜久雄さんによると、戦時中など、おばあさんたちと一緒に神社で出兵した人たちの無事を願ったり、社殿の中で過ごすこともあったとか。

 

 現在の社殿は、平成2年の310年祭に合わせて地域住民の寄進により建立したもの。菅原惟一郎氏が中心となって行った300年大祭(昭和55年)の頃から、「社殿も新しくした方が良いのでは?」という声が自然とあがっていたと言い、昭和56年の惟一郎氏他界後、唯一朗氏に近い方(及川カツロウ氏(故人))が中心となり、寄進の動きを進めて行ったようです(正確な詳細は不明)。

 

※通説としてこの場所が「朝日舘跡」とされていますが、現在の「大泉寺」の斜め上方に古い井戸や舘跡があり、小山喜久雄氏は「そこが本来の朝日舘跡ではないか」とのこと。そこは構造改善事業の際に埋めてしまったそう。

八郎右衛門神社 社殿
八郎右衛門神社社殿
八郎右衛門神社 拝殿
八郎右衛門神社社殿

社殿のある場所からの眺め
▲ 社殿のある場所からの眺め。

 

 

◀社殿のある場所からの眺め。釘子村が見渡せる。鳥居の下に現在の石段が続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

■関係スポット(屋敷跡等)

関係スポット(屋敷跡等)

 ※当時の屋号であり、現在は関係のない方が住んでいる家や、廃屋となっている場所もあります。

無断での立ち入り等はされないようご理解をお願いします。

長根屋敷

長宗我部の子孫である昆野家の家=八郎右衛門が養子に入った家。旧家であり、八郎右衛門が処刑になるまでは村第一の名家だったと考えられるが、八郎右衛門の処刑後は「つぶれ地」になったが、

後に全く別の家が入っている。

 

角地屋敷

八郎右衛門の処刑後何十年か経過してから、その直系の子孫が居を構えたとされる家。千葉幸右衛門先生の推測では、八郎右衛門から2~3代過ぎてから。明治期に火災に遭い、古文書等が消失している(長根屋敷から受け継がれたと考えられる長宗我部家ゆかりの品もあったとか)。この家は11代目の時に北海道へ移住したため、残った屋敷跡は廃墟のようになってしまった。12代目(=八郎右衛門の直系の末裔)は愛知県在住らしい。

 

朴木屋敷

「つぶれ地」となっていた土地を徳田(藤沢)の深田屋敷星惣兵衛が買い取り、二男を表百姓として分家した。その妻が八郎右衛門の次女。現在は貸家になっており、家主(=八郎右衛門の直系の末裔)は市内にはいない

 

お射勢堂(屋号)

「御射勢堂」という、古くからある神様の前にあった家で、何度も移転している(現在は長根屋敷跡の一部に居を構える)にも関わらず「お射勢堂(略されてお勢堂)の昆野家」と呼ばれる。長根屋敷の別家と推測され、八郎右衛門の首を貰い受けた家。この家の旧墓地に首塚がある。

 

◆藤株屋敷

御射勢堂(神様)の下。菅原惟一郎氏の家。 

 

 

 

■昆野八郎右衛門の首塚

 八郎右衛門の首は八郎右衛門の遠縁の昆野家(現在の昆野光男氏の祖先(お射勢堂)とも言われるが正確には不明)が貰い受けたとされ、その当時は藩の目に入らないよう、最低限の首塚と石碑だけだったとされます(千葉幸右衛門先生の著書には「処刑75年後に角地で建てたとの言い伝えあり」と記載あり)。

  

 首塚お射勢堂の墓にありますが、墓碑は2~3m離れたところにある角地屋敷の墓の上段にあるとのこと。残念ながら、他の先祖のお墓と紛れ、見つけることができませんでしたが(よく見れば分かるらしいですが、個人宅の墓所であるため、捜索は自粛)、昭和53年に建立した首塚(昆野三郎氏建之)には手を合わせることができました。

昭和53年に建立した首塚
▲昭和53年に建立した首塚
昭和53年に建立した首塚 昆野三郎氏建之

昆野八郎右衛門の紙芝居
▲昆野八郎右衛門の紙芝居

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紙芝居『昆野八郎右衛門物語』

  八郎右衛門の伝承に関しては、「演劇」「謡い」「浪曲」「紙芝居」など、あまり公にはなっていないものの、様々な手段での継承(顕彰)が試みられてきたようです。

 

 上の紙芝居は室根公民館(当時)で制作したもの(正式な時期等不明)で、室根に縁のある人が絵を担当したのだとか。全12枚で構成されています。

 

 なお、平成2年に開催された310年祭のDVDの中にもこれとは別の紙芝居を上映しているシーンが映っていることから、その当時以前にも紙芝居が制作されたようです。

 

 

 

 ■八郎右衛門の

 八郎右衛門は藤沢町徳田の星家の娘と結婚したとされているため、徳田の星家では古いとされる星義弘様宅にて「過去帳」を見せていただきました。

 

 拝見させていただいた過去帳には八郎右衛門の妻とされる人物の記載はありませんでしたが、八郎右衛門の娘と考えられる人物の記載は発見!

 

※徳田の「深田屋敷」と呼ばれる家とされており、可能性のある家は3軒(うち1軒は空き家)。そのうちの1軒が星義弘様宅。千葉幸右衛門先生の著書を見る限りでは星義弘様宅で間違いないと思われるが、現在証拠となる資料が紛失状態になっており、確認ができない。

星義弘様宅の「過去帳」

▲二男の興惣左エ門について、「釘子村の朴木屋敷に分家す」という主旨の記載と、その妻について「釘子村長根屋敷金野八郎右衛門次女なり」という記載が!!!

 

※コンノの漢字が「金野」になっているが当時はこうした漢字の誤りは多いらしい。

星義弘様宅の『星氏先祖法名扣簿』

 

 

 

 

 

 

◀星義弘様宅の『星氏先祖法名扣簿』。

これより古い物もあったが、某大学教授に貸したきり、返してもらっておらず、問い合わせたが大学ではわからないとの返答で、今どうなっているのかは不明とのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■310年祭(正式な名称不明)

 平成2年に開催した310年祭では、地域住民の寄進で社殿を新築。記念式典が開かれ、千葉幸右衛門先生や北海道から八郎右衛門の子孫も参加しています。画像はこの時の様子を記録したDVD(動画)から切り取った画像です。※DVDは小山喜久雄氏所蔵。

平成2年 310年祭の様子
平成2年 310年祭の様子
平成2年 310年祭の様子
▲千葉幸右衛門先生
平成2年 310年祭の様子
平成2年 310年祭の様子
平成2年 310年祭の様子
平成2年 310年祭の様子
平成2年 310年祭の様子
平成2年 310年祭の様子
平成2年 310年祭の様子
▲紙芝居があったらしい
平成2年 310年祭の様子

 

■330年忌

 昆野八郎右衛門が実在した人物であるということを示すためにも、「法要」として「330年忌」を開催。

 

 そのため、神主さんではなく、集落内にある「茂林寺」「大泉寺」の住職が読経を行います。

 また、330年忌に合わせ、小山喜久雄さんが記念碑を建立したため、その記念式典も合わせて開催。

 

 この時の記事を書いた記者が、昆野八郎右衛門の生家の末裔(那須照市さん)であり、この取材の直後に配属先が変わり、「記者として最後の記事に近い」とのこと。運命的なものを感じます。

 

330年忌
那須さんによる330年忌の記事(平成22年9月26日         岩手日日新聞社)
▲那須さんによる330年忌の記事(平成22年9月26日 岩手日日新聞社)

 

■後世へ歴史をつなぐ小山喜久雄氏

 八郎右衛門神社のすぐ近く(室根町矢越松原16)にある「株式会社山喜建設」の会長小山喜久雄さんは、昆野八郎右衛門に日の目が当たるようになる過程を見てきた(関わってきた)貴重な存在です。

 

 昭和6年の生まれの喜久雄さんは、幼少期(小学校入学前)に昆野八郎右衛門に関する「演劇」を見たことがあり、また、地元住民(松原部落)が毎週神社の掃除に行っている様子も見ていたことから、自然と八郎右衛門が身近になっていったとか。

 

 小さい頃から両親にも「八郎右衛門は大事な人なんだよ」と言われて育ち、戦時中などは夜中に神社の中で出兵した人の安全を祈ったりする程、周囲の大人たちも八郎右衛門(神社)を心の拠り所にしていたそうです。

 

「本来であれば、八郎右衛門の末裔にあたる人たちに『先祖は立派な人だった』ということを伝えていってほしいが、『罪人』という側面もあり、語りにくい部分もあるだろうことから、第三者の自分が八郎右衛門を語り継いでいかなければいけないと思っている」という喜久雄さん。

80戸程ある15区自治会の住民に対しても「管理が大変なのは確かだが、八郎右衛門の事を理解してほしい」と、負担感ではなく、集落の誇りとして捉えてもらえるよう願っています。

 

 喜久雄さんは平成22年の「330年忌」を記念し、神社の石段付近に石碑を建立。石碑にも「330年忌」と刻まれていますが、「八郎右衛門は釘子で実際に生きていた人」ということを強調するために「忌(法要)」としています。

 

 なお、千葉幸右衛門先生の東山新報における連載『昆野八郎右衛門伝』が未完のまま連載終了となった後、室根村商工会議所の「室根商工ニュース」にて13年にも及ぶ連載(143回)に取り次いだのも喜久雄さん。さらに、長宗我部家の子孫・長宗我部友親氏に昆野八郎右衛門の存在を知らせるきっかけをつくったのも喜久雄さんであり、その顕彰に大きく貢献してきました。

小山喜久雄氏(左)と那須照市氏(右)

 

 

 

◀記念碑を建立した小山喜久雄氏(左)と昆野八郎右衛門生家の末裔・那須照市氏(右)

【2022年3月5日撮影】

 

 

■菅原惟一郎氏の遺志を継いで

 かつて室根村村長を務めたことのある菅原惟一郎氏は、「お射勢堂(昆野家)」のすぐ下にある「藤株屋敷」の住人でした。昭和50年頃、千葉幸右衛門先生のおかげで昆野八郎右衛門の存在が地域で再認識されてくると、惟一郎氏は神社を公園化することで、後世へもっと伝えていこうと動き出します。

 

 ある日、惟一郎氏と喜久雄さんが神社の鳥居付近の石に腰掛け、話をする機会があったとか。

 急いで準備を進めていく惟一郎氏に対し、喜久雄さんが「そんなに急いでやらなくても良いのではないか?」と投げかけたところ、92歳を迎えたくらいの惟一郎さんから「お前たちは若いが、俺には明日がねぇ」という返事があったそう。

 

 この約2年後、300年法要の翌年に惟一郎氏は他界。喜久雄さんは「石に座って話をしたその時の事が忘れられない」と言い、「惟一郎さんが亡くなり、その他の地域の歴史に詳しい人も亡くなり、末裔も地元にいなくなり……。そのたびに『八郎右衛門という人の事を伝えていかないと』という思いが強くなった。何とかこの八郎右衛門という名前を残していきたい」と、小学校などで八郎右衛門の偉業に関する講演などを行ってきました。

 

「若い人に八郎右衛門の事をもっと知ってもらい、350年忌(祭)をやって繋いでいってほしい」と、今回の調査に関しても多大なるご協力をいただきました。

昆野八郎右衛門神社 一心園 石碑

 

 

◀昆野八郎右衛門神社に続く道に立つ「一心園」の石碑。菅原惟一郎氏が作った(作ろうとした)講中組織で、この石碑や整備のための道路の設置費用なども惟一郎氏が支出。

組織を動かすことも、完成を見届けることもできぬまま

94歳で他界した。

 

 

■「誌面こぼれ話」のPDFデータは↓からダウンロード可能です。

自由研究_昆野八郎右衛門_誌面こぼれ話.pdf
PDFファイル 4.8 MB

誌面掲載記事はコチラから(^^)/

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